策士、無策に鑑みる(郭賈)





袋の鼠とはこのことだと、対岸の孫呉本陣をじっと眺めながら賈詡は思った。
赤壁の戦で危惧していた東南の風は、病を克服した郭嘉が看破、その後も孫劉連合の武将達を次々と打ち破り、現在は曹操を始めとする味方達は孫呉本陣まで進撃し、孫権の首を討ち取らんとしている。

(鮮やか、といえば鮮やかだが・・・)

その中に賈詡が混ざらなかったのは、後方の守備が手薄となるのを危惧したのと、一度味方の動きを少し見ておこうと思ったからであった。

兵法では勝利を確信した上でも敵に退路を与えるのが常であるが、今まさに目の前で行われているそれは、兵法などという枠をかなぐり捨てた、人間の野望そのもの塊となった同士の殺し合いに過ぎないと賈詡の目に映る。敵に退路など無し、思わず身震いした。
賈詡自身、兵法は知識の一つの“書物”であり、重要なのは如何に応用するかしないかは知り得ているはずだと己に言い聞かせる。
だが、目の前で繰り広げられているのは殺し合いだ。
それでも統率は取れている。
刺客でもって敵を殺したり、はたまた自ら闇に潜んで敵を暗殺したりと孤軍で戦ってきた己とは違う。
恐怖とは違う震えがこみ上げる。
これは、何だ?
賈詡は己の掌を見た。

「賈詡様、そろそろ我等も・・・」
「ああ、撤退の準備を整えておこう」
「えっ、進撃しないのですか?」
「そろそろ勝鬨があがる頃合いだ。船の点検と酒を多く準備しておくことだ」

と、近くの兵に言ったところで、孫呉陣営から高らかな勝鬨が聞こえ、ほらな、と賈詡は肩を竦めてみせた。




「郭嘉殿がいなければ、どうなっていたことか」

赤壁から許昌へ移動し、曹操は勝利の大宴会を開いた。
これで大きく天下へ近づいた。劉備と孫権、二人の首は討ち取れなかったが、それでもこちらの大勝利に終わったのは、火計と敵と通じていた味方を迅速に討ち取ったのが大きく作用している。
そのどちらをも見破ったのは、郭嘉であった。が、実の所火計を危惧していたのは賈詡も同様であった。

「私がいなかったら、賈詡がどうにかしてくれるだろう?」
「いや、本陣を守備していて感じた。俺は一軍を動かす力に乏しい」
「そうかな?」
「だから、後衛で感じたさ。あの大きな軍を動かしたい、策を考え全ての軍に動きを伝えるのもまた我々の役目だが、前線で一軍を率い一つの策に嵌めたいと、ね。そう考えたら身体が震えたんだ」

隣で杯を呷った郭嘉が、喉を上下させてじっと賈詡を見つめた。
その視線を受けて、今度は賈詡が杯の酒に口を付ける。

こうして郭嘉の視線を感じるようになったのは、曹操に降った直後から。
視線は己の監視だろうと賈詡は知っていたから、戦では味方の動き以外何も考えず何も行動せず、許昌に宛がわれた己の房でも振られた仕事のみをこなして他の書簡には目を通さなかった。他の書簡に目を通す場合は、旬彧らが見ている所で行った。
宴も顔を出すのは曹操自らが開く宴に招待された時ぐらいだし、他の武将や文官ともほぼ付き合いを持っていない。
それが監視の郭嘉の目には、十分曹操の信頼を得ているに値すると映ったようだが、魏軍全体の信頼となるとまた別だ。

その違いを知っていたからこそ賈詡はあえて、無策に身を投じることにしていたのだ。
けれど、赤壁の戦はどうだ。
あの時守備していた己の震えが今わかった。
策を巡らし、且つ一軍を率いて前線に喰らいつきたい。例えば、真横にいる柔和な軍師のように・・・。いや、柔和でいるようでいて、敵の全ての考えを読み、背水としても尚攻め続ける誰よりも恐怖慄く軍師のように。

その時、隣から高らかな笑い声が唐突に聞こえて賈詡は思わずぎょっとして顔をあげた。

「ど、どうした?」
「賈詡らしくないじゃないか。例え小さな軍でも率いる者がいれば軍は軍だよ。それに、赤壁では後衛に賈詡がいてくれたからこそ、我々も曹操殿も、敵本陣まで喰い込めたんだ」
「俺が裏切っていたらどうした?」
「それは考えられないね」
「どうしてそう言い切れる」
「まず劉備は賈詡のやり方を嫌うだろう。孫権は土地の結束が固い。孫権の周囲を固めている軍師達も同様だ。だから、賈詡が才を示すことができるのは、曹操殿の器の元でしかできないのさ。そんな器か自ら零れてしまっては、己が身を滅ぼすだけだ」
「・・・」
「敢えて言おうか。賈詡を信頼しているのは曹操殿や私だけじゃない。他の将軍たちも、兵卒も皆信頼している。才を評価している。それだけで軍を率いるには十分だ」
「・・・成程」

こちらの思惑もまた、見破られていたか・・・。
そしてそっと、郭嘉は声を顰めて賈詡の耳元で囁いた。

「もし、次の戦まで軍を率いるのに身体が疼いているのなら、私が相手をしてあげようか?」
「いやいや、御遠慮被りたいね。」
「つれないなぁ」

郭嘉の声色で郭嘉の心はほぼ本気であることを賈詡は察したが、そんな事で違う意味で身を滅ぼしたくはない。

戦を思い出すだけでも震える。
それは手腕を振るいたい、願望と高揚がないまぜになった震えだと思い知った。
そんな願望と高揚は、身体を重ねても一時的に落ち付いても数刻すれば再び芽を出すであろう。
早く次の戦の策を立てねばと、賈詡は杯の酒を大きく呷り、立ちあがった。
そして、己の袖を引っ張ろうとした郭嘉の手を振り払い、自らの房へと速足に去ったのである。








いきなり色気づく郭嘉さんと、全然その気ない、見せない賈詡さんのやりとりが大好きなんです。