いざ、彼の地へ


ふと、物悲しい気分になって、凌統は一人馬に乗った。
馬の腹を蹴り、行き先も考えず暫く全速力で駆けて、今はゆっくりと江沿いを見渡せる程の速度で走ってはいるが、馬から降りようとは思わない。
厩から邸を出るまで誰とも会わなかったから、今邸内では自分が居ないと邸中が慌てているかもしれない。外へ行く時はいつだって、誰かに声をかけていたから。
それでも、すぐに戻ろうという気にはなれなかった。

(寒いな・・・)

この冬の季節、温暖な気候といわれる孫呉でも空気は冷たい。
にも関わらず、凌統が知る孫呉の漢達は皆身体を動かす武官ばかりで、こんな寒空でも薄着でいるのが当たり前だ。凌統自身もそのうちに入る。
だが、こうして一人邸を抜けて海の近くまでやってくると民も少なく、自然の風の冷たさに、いつもの取り巻く熱が無い事が相乗し、冷たさと虚無とが混ぜあった冷気が身体の芯まで染み入り、衣の合わせに手をやって小さく身震いをした。
馬の足を止めた。
首に巻いている巾に鼻を埋めるように俯く。
愛馬越しに見えるのは、知っている大地。
耳に入ってくる、ざあざあという水の音は、江の音かそれとも海の音か。

「・・・」

ここは夏口ではないが、父上が倒れた大地。
父より受け継いだ兵達が皆還っている大地。
そしていづれは、自分も逝くであろう彼の地。

凌統は瞼を閉じた。
そして、思い出した風景につい眉根を寄せた。





昨日の夜に遡る。
いつものように孫権主催の酒宴に凌統は参加した。そこには仇敵の甘寧も出席していて、顔を合わせると同時にどちらともなく悪態を口にし、いつの間にか目の前にあった酒と肴を飲み食いしながら言いあいをし、飲みくらべ勝負に流れ、どちらともなく孫権に礼もしないままふらつきつつ、それでも言いあうのを止めずに宴の間から退出するまでは大体毎回同じだ。
それからは、適当に罵りあいつつ互いに邸に帰るか、どちらかの邸に行って酔いに任せて身体を貪りあうかに分かれる。前者であれば、次の日が二日酔いであれど、甘寧が“二日酔いだ”と言わなければ自分が負けになってしまうので、甘寧と顔を合わせても二日酔いを押し殺して涼しげに振舞わなければならず、少し奴と顔を合わせたくはなかった。
後者の場合は、二日酔いも、身体を重ねたことも、大体甘寧のせいにすることにしている。

だが、昨日の夜は違った。
飲み比べに陥ったまではいつもと同じであったが、気が付いたら隣にいるはずの甘寧が居なくなっていたのだ。
近くにいた韓当に聞いてみれば、ふらりと立ってどこかへ行ったようだと言うので、厠にでも行ったのかと思ったが、一向に戻ってこない。
何となく凌統も酒の進みが悪くなり、肴の干し肉を少し齧って水を飲み、興が冷めたのをひた隠してその場を退出した。

(あの野郎・・・腹でも壊したってかい?後で聞いたら何て答えるかねぇ。答えによっては、からかい甲斐があるな)

綺麗な夜空だ。
出ている満月を愛でる事ができるぐらい、しっかり意識のある自分に、何となく凌統は白けて小さくため息をついた。
ほろ酔いのまま一人の帰り道は何時ぶりだろうか。いや、こういう時があるのもいいじゃないか。静かに月の下歩くなんて乙な事も、最近は味わって居なかったから。
少しばかり寂しく思う自分に嘘をつくように、いつもの罵りあいの口実を必死に考えながら夜道を歩いていた凌統は、僅かな気配を感じて咄嗟に自らの気配も隠した。

他人の邸の軒下にそっと身を顰(ひそ)め、様子を伺う。凌統が感じた気配を持つ者もまた、自らの気配を隠しているように感じた。
斥候か・・・?に、しては妙だ。
商家の布張りの屋根の下で、背中を丸くして何かをしている。
月が出ているとはいえ、身を小さくして前屈みになっているから面構えが影になっていて誰かは分からない。が、忙しく咳をするのが聞こえた。
そして影の口から、何かを大量に吐いたのが見えた。

「!」

具合を悪くした民かと思い、僅かに壁から肩を出した凌統は息を飲んだ。
背を仰け反らせると同時に月明かりに照らされた顔は、甘寧本人だったのだ。
しかも、月に照らされた口元は真っ赤に染まっていて、・・・いつも戦場で敵将を討ち取った時にするように、口角を上げながら自らが吐いたそれを見下しながら口元の血を乱暴に拭っているではないか。
ぞっとした。月明かりに照らされた龍の彫り物をたくわえた身体と口元を血で濡らすその様は、人にあらず、肉を喰らう化け物のようだ。
同時に甘寧自身が血を吐いているということは・・・と、考える。甘寧が病を患っているという答えに辿りつくには、然程時間はかからなかった。
甘寧の舌打ちが聞こえて我に返った凌統は、何とか気配を殺しながら邸に逃げるように走った。





眠れなかったのだ。
あんなに大量の血を吐くぐらいの病なら、きっとそうは長くはない。
以前、周瑜がそうだったように・・・。
だからといって、病に罹ったと騒ぐ男ではないと凌統は思った。そして、周りに悟られ手厚く看護を受けるのも本意ではないだろう。床で死ぬより戦場で死ぬ方が、あいつには似合ってるから・・・。

「・・・父上」

そうだ、父上もそんな人だった。
そして自分自身にも問う。床で死ぬより戦場で死にたい。それが武官として本望な死に方だ。
とはいえ、静かにだが確実に仇との別れが近づいていることには変わりはない。別離に焦っている自分自身に、凌統は酷く戸惑っていた。
罵りあいながら、飲み比べをし、碁を打つ、日常。
そうだ、“日常”だ。父上が居なくなって一度消えて無くなって、やっと取り戻しかけているそれが無くなってしまう。どうすればいいんだ。そう思ったら邸を飛び出していた。
安寧なる死など誰が望む?

(仇が死ぬのは本懐を遂げると同じじゃないか、だって、あいつは父上の仇で・・・)

次の戦場に、甘寧はきっと出陣するだろう。既にそのように軍備も整えている。

(誰が出陣を止めるかっての。止めた所であの猪のことだ、突っ込むに決まってる)

凌統自身、誰かに甘寧の病を伝えようとは思わないし、どの人物が知っているか探ろうとも思わない。そっと甘寧自身に説伏しようとも思わない。
でも、それで消えてしまえば?

(・・・嫌だな)

勝手に行くな。勝手に・・・勝手に。
凌統は無意識にぎり、と強く奥歯を噛みしめていた。
存分に自分の罵声を受け止めて、生きてくれる事が最上の仇を取る事なのではないか?

「よぉ、凌統。こんなとこで何してんだぁ?」

突然知っている憎たらしい声が後ろから降りかかってきて、凌統は頭(かぶり)を振った。
甘寧だ。
ちゃんと足が付いていて、一歩一歩こちらに近づいてくる。死んでない。生きている。
顔色も、いつもと同じだ。
もしかして、昨日見た光景は夜の幻だったのか?そうであってくれと心の片隅で思いながら、凌統は甘寧のほうへ馬首を向けて憎たらしい笑みを浮かべてかえした。

「あんた、何でこんな所にいるんだよ。どっかに逃げるってんならここで首を頂戴するけど?」
「へっ!てめぇこそ何してんだ。邸に行ってみれば“旦那様がいねぇ”ってんで大騒ぎだったぜ」
「あっそ。俺はちょっと馬を走らせたかっただけだよ。にしても、よくここにいるって分かったな」
「何となく、だ」
「っは、嗅覚だけは冴えてるのかい?にしても、昨日は随分お早いお帰りだったねぇ、甘寧さんよ」
「おう、一人で飲みてぇ気分でな。てめぇと飲むより断然杯が傾いたってな!」
「へぇ、そいつは残念だったね。こっちは皆で殿が新しく手に入れた酒を愉しんでたよ。・・・それに、俺も身体的に物足りなかったってのにさ」

甘寧が目を丸くして驚いた。
驚いたのは凌統自身もである。いつものやりとりの間に咄嗟に出た嘘のようなものなのだが、半分は本音だ。
つい、自分でも笑いたくなって凌統は甘寧から顔を背けるようにして笑みを堪えた。その時、甘寧が小さく咳き込んだのが聞こえてはっとする。

(・・・幻じゃないってかい・・・やれやれ)
「じゃ、帰ってやろうとしようぜ!俺も丁度物足りねぇところだった」
「・・・そうかい。悪いけど、容赦しないよ」
「馬鹿野郎、手を抜く訳ねぇだろうがよ」

顔を上げればいつものように笑っている甘寧がいた。
成る程、そうでなくては。
日常が続くように、地に還る前に体温を刻みこまなければ。

「・・・馬、乗る?」
「あ?んじゃあ前に乗せろ」
「やだね。あんたの手綱捌きは荒々しいったらないっつの。俺の馬を潰す気かい?」
「そんなに繊細じゃねぇだろ、てめぇの馬。それにとっとと帰りてぇんだろ?なら、こいつにも一仕事してもらわねぇとな!」
「っちょっと!無理矢理乗るな落ちる・・・って!そんなに腹強く蹴んなっ!」









どちらかに死の匂いが漂っても、二人でいる時は全く悲観に暮れないんだろうなぁ。
いつものように罵りあいながら病も笑い飛ばすぐらいのほうが似合ってるな・・・けどやっぱ二人で健康的に笑って殴りあってるのがいいな・・・