命運



「おい」

凌統は呆れた溜息と同時に、目の前にいる甘寧に声をかけた。
戸の隙間から、夜虫の澄んだ鳴き声が聞こえてくるが、目の前の男は珍しく鈴を身につけてはいない。それどころか、言葉一つも漏らしてはいない。
ほら、声を掛けてもだんまりだ。
やっぱりこいつは理解できないね、と思いながら顔を背けた凌統の目に映るのは、自らの手首を寝台に縫い止める太い腕があった。
理解はできないが、何がしたいか予想はできる。ただ、何故無言なのかが分からなかった。



軍議が終わり、甘寧のほうから俺の邸に来ないかと誘いを受けた。
最近の甘寧は、凌統の邸に主の許可無しにいきなり押し掛けてきては酒での差し勝負を持ちかけてきたり、勝手に飯を食いに来たり勝手に邸の者と話をしていたりと、やたら出入りを繰り返していた。
その事もあり、凌統は自分ばかりが本陣を攻め入られては堪らない、こちらからも敵陣に攻め入ってやらねば、と、首を縦に振ったのだ。

その夜、凌統は一旦邸に戻り、軽装になって暫く邸の厨房に入り浸っていた。
あんな奴でも一応邸に人がいる。甘寧に他人の邸に行く時の礼儀を見せてやろうと酒の肴を物色し、丁度いい具合の川魚があったので、適当に塩をまぶして焼いたものを革袋に入れて邸を出た。
甘寧の邸には、誰もいなかった。その時点でおかしいと気づくべきだったのだ。
門で声をあげても誰も出てこない。
暫くして、邸の奥の闇から浮かび上がるように甘寧本人がやってきた。

「おう凌統。よく来たな、こっちに来い」

殺気はない。
甘寧も普通に接したが、それ以降言葉は聞いていない。
凌統は甘寧の後ろを歩きながら、その背をぼんやりと見つめていた。
甘寧も凌統同様、簡素な衣に履き替えていて鈴も無い。大人しくも出来るんじゃないかと片眉をあげた。

(今なら、こいつを殺せるかな)
(いや、そんな機会は今までだっていくらでもあった)
(・・・ダチ、ねぇ・・・)

じわじわと心に響くその二文字をかき消すように、凌統は甘寧より目を逸らし初めて訪れる甘寧の邸を流し見た。
意外な事に想像していたより簡素だった。門には他と比べれば豪華な装飾があったけれども、廊下や通り過ぎた室には、甘寧本人とは裏腹に凝った装飾は殆ど無かった。ただ一つ、邸の中を川が流れていた。それは、作為的に作ったものか、元々あった川の上に邸を建造したからかは分からないが、川幅はやや広く、長江に流れつくだろう。捉え方によれば邸の装飾よりも豪華かもしれないとは思った。

その川を隔てた向こうに、甘寧自身の室があった。
甘寧がやや振り向いて、入れと顎をしゃくった。甘寧の室は、今までの邸の簡素さとは打って変わり、大きく豪奢な寝台と、卓と、いくつかの武器があって、それらをひとつの灯がゆらゆらと照らしている。
らしいな、と思いながら、凌統は卓に自分が持ってきた魚をどんとあげ、後ろにいる甘寧に声をかけようと過振りを振った。

「あんたん邸ってさぁ、意外と何もねぇけどここだけあんたのっ・・・!」

気が付けば、腕を取られていた。声を上げる前に一瞬で凌統は考える。完全に不意打ちだ。暗器はある。いざとなれば対応できる。こちらには奴から不意打ちを食らう理由は差し当たって無い。むしろこちらにはいくらでもある。だがこいつもこれくらいできるなら、奇襲も簡単にできるだろうに・・・。
それくらい悠長に考えることができるぐらい、不思議と首は取られないと思った。
そう。こいつの“ダチ”である“俺”が、殺られる訳が無い。
でも、何故そう思う?
その時やっと、凌統は邸には己と甘寧以外の人間の気配が全く無い事に気がついたのだ。

凌統が背負われるようにして降ろされたのはあの馬鹿でかい寝台の上で、手首を摑まえながら、甘寧は馬乗りになっているのだ。
甘寧の無言は続く。
凌統の手首を掴む力は思ったよりも弱い。逃げようと思えば逃げることができる。馬乗りになっている奴のどてっ腹に足を叩き込むこともできる。辺りに人の気配はない。見た所、甘寧は丸腰だ。体術だけならばこちらに分がある。
隙だらけだ。しかし甘寧は、瞳だけをじっと凌統に巡らせていた。自らの何を見たいのか、殺したいのか、それとも、願っているのか?・・・殺されたいのか・・・?
思わず凌統は舌打ちをして、諦めたように甘寧に再度問いかける。

「あんた・・・邸の奴等はどうしたよ」
「・・・・・・休みをやった」
「野郎共は?」
「どっかで飲んでるだろうぜ」
「じゃあ、今ここで、俺があんたの首を掻っ斬ってもいいってかい?」
「・・・てめぇがそうしたいならしろ」

甘寧は続けて言う。ダチのてめぇに殺されるなら本望だ、と。
凌統は目を丸くした。そして、鼻で笑った。
声が聞けたかと思えば、鈴の甘寧様の言葉とは到底思えない程弱々しく、幻滅する言葉だ。ダチとはそんなに薄く脆いものなのか?殺されたい?味方がダチなら、そいつに殺されるのもあんたはすんなり認めるのか?想像していたダチとは全く異なるうえ、最早“ダチ”を超えているじゃないか。
思わず凌統は声を上げて笑った。

「おいあんた、“ダチ”に逃げてないかい?俺があんたを認めてるかどうか確かめようとか、そんな馬鹿臭ぇ事考えるくらいの脳があるんだったら、策でも考えろっての」
「んだと!?」
「じゃあ何だよ。こんな人払いまでかけて、こんな事されるならむしろ俺は殴り合いのほうがよかったね!」

煽り言葉を吐き捨て、凌統はもう一度笑った。挑発だ。俺は何を挑発しているんだ。俺は何を願っているんだ、こいつを何に導こうとしているんだ。怯えているようにも見える野獣を、今なら屠る事もできるのに、怖気づくぐらいならいっそ喰われてしまいたいと・・・。
ぎり、と、凌統の手首を掴む力が強くなった。
そうでなくては。
凌統は薄く笑った。
次の瞬間に刃のような歯が首に食い込み襲いかかってきた。凌統は笑ったままそれを耐え、受け止めた。
あの川を渡り、甘寧のにおいしかないこの場に足を踏み入れた時から、互いの命運は決まっていたのだ。









どうにも7甘寧の「ダチ」がしっくりこなくて書きました。全部ダチで纏めようとしている感があって、だったら4の「敵は斬る、味方は守る」のほうがシンプルで甘寧らしいなーと思って。なので、ちょっと凌統に言葉で甘寧を殴ってもらいました。