THE SWAN(甘凌)


「凌統」

呼ばれたような気がして、凌統は目を覚ました。
目が覚めたといっても瞼を開く気にはなれず、未だ瞼の裏の、真っ暗な世界の中を微睡んでいる。
どれだけ長い眠りについていたのだろう。
瞼どころか、体中に錘を付けたように体が重く、指一本すら動かす気になれない。寝かせてくれよ。なのに………、そうだ。誰かに名前を呼ばれて心が覚めたのだ。
凌統は半ば仕方無く、ゆっくりと瞼を開いてみた。まぶしい青空が視界いっぱいに広がり、目のあたりがちかちかとして、二度ほど瞬きをする。
この青空の下、庭にいるらしい。どうやら自分は椅子に座っているのか、足は膝から下がぶらんと地に垂れており、背には背もたれが当たっている。目の前には白い巾に覆われた猫足の長机。机の上には、茶器や菓子、それを取り分ける箸などが少々潔癖なほどに美しく置いてあり、凌統はその一番端の席についていた。

「おら」

突然振ってきた声にも、首を向けることができないほどに再び眠気が込み上げてきて、何も返すことが出来ない。
呆れたため息が耳に入ったが、眠い。けれど、突然どさりと頭上に落ちてきた衝動に、凌統は少しだけ我に返った。
目の端に帽子のようなもののつばが見えた。机の上に映し出されている自分の頭の影が不自然に縦に伸びているし、確かに何かを頭に被っている感覚がする。

(あ、そっか……帽子が落ちてたのか)

のろのろと腕を動かして、つばを指でつまみながら帽子をかぶり直す。ああ、なぜだ。頭が上手く動かない。
この状況は一体何なんだ?

「何寝てんだ」

また、あの声だ。どこから声がするのだろうと、やっと顔を左右に振って声の主を探そうと思った矢先、ひゅっと何かが視界を横切り、次の瞬間に机の上の茶器たちががしゃんと盛大な音を立てて庭の上に転がり落ちてしまった。
けれど、それでも凌統は、それらを見ても机の上に戻す気力が湧いてこなかった。
ゆらりと視界に蠢く影。小さく頭を動かして影のほうを見ると、机の上に人のような者がいた。まるで、主を待っている猫のような座りかたをしている。
こいつ、見たことがあるような気がする。

「あんた……あれ、名前なんだっけ」

久しぶりに自分の声を聞いた。

「甘寧だ、忘れたのか」

甘寧、かんねい、かんねい。誰だっけ。心の中で聞いたままの名前を反芻してみるも、引っ掛かるものも思うところもなかったが、凌統はぼんやりと甘寧を見つめた。

「あんた、そのしっぽ何? 化け猫? 耳なんて獣そのものじゃないか」


凌統はそのまま思ったことを呟いた。甘寧に聞いたのではない。呟いたのだ。 返ってくる返答がどんなものであれ、耳を傾けるつもりはない。甘寧が何か答えても答えなくてもじいっとこちらを見つめているだけでも、別にどうでもよかった。
しかしまあ、このとびっきりの青空は何だ!
甘寧が壊してしまったが、机の上の華やかさだって! 机の奥にある白磁の茶器には温かい湯が注いであるのだろう、茶器の隙間からは細い湯気が、蝋燭の灯のようにゆらゆらと立ち昇っている。
菓子もどれも美味しそうなものばかり。
覚えていないが、きっと今日はいい日に違いない。俺もなんだか妙な身なりをしているし、甘寧の他にも茶会に来る者が現れるのだろうか。歓待しなくては。ああ、しかしどうしようか。この眠気はどうにもならない。椅子から立ち上がることも億劫だ。
いい日のはずなのに、気も滅入る一方だ。少しでも気を紛らわそうと、青空に目を向けてみる。青空には幾何学模様の雲が流れていた。そして、雲たちは一定のところまで流れると一気に星のように地平線に向かって真っ逆さまに落ちていく。
影はあるのに太陽の気配もない。

(ここは、どこだ?)

じわじわと、何かが迫ってくる。この世界は、「本当」か?
あれ、俺が知ってる甘寧って、誰だっけ。
予想外に、胸がじくりと痛んだ。
突然目の前の「甘寧」がしっぽをゆらゆら揺らして、凌統の顔を覗き込みながら屈託のない笑顔を作った。唇の端から覗く牙が、刃のようにきらりと光っている。

「俺はまあ、猫みたいなもんだ」
「猫? 言葉を話せる猫って、あんたとうとう頭いかれたのかよ」
「まあ聞け。で、お前はこのいかれた茶会を開いている帽子屋ってわけだ」

俺がこの茶会を主催してるって? いつ?どういう状況でそうなった? 誰と?

(甘寧と?)

ふいに体に痛みが奔り、凌統はぐっと呻きながら背を丸めた。
じくじくとした痛みの元は、丁度左手の親指と人差し指の間の傷だった。見れば血まで流れているではないか。血は人差し指と親指を伝いぽたぽたと庭の土に垂れている。凝固する様子もない。このままじゃあ死んでしまう。
あれ、この傷なんだっけ。
腕を上げようとしたら、甘寧に手首を掴まれて止められてしまった。傷も見えない。

「それは俺がつけた」
「あんたが?」
「お前を、ここに留めるために」
「え?」
「もう眠れ」

(俺は、まだ、眠ってもいいのか?)
(ここに、俺を留める?)
(まあいいや、眠いし。あんたの言葉を信じるとしますよ……)






ちり、と、鈴の音が遠くに聞こえた。

「凌統」

呼ばれたような気がして、凌統は目を覚ました。

「ん……ここ……茶会じゃないのか?」

馬鹿野郎という甘寧の呆れた声がする。

「寝ぼけてんじゃあねえ。そりゃあお前の夢の中だけにしろ」

夢。ああ、そうか。
言われてみればそうであった。
今現在凌統はじめ、孫呉の各将は濡須口に向けて行軍中であり、凌統は幕舎の中で仮眠をとっていたことを思い出した。
思い起こせば、あの茶会は夢で当たり前なのだ。夢の中では椅子に座ったまま寝ていたが、本当は簡易ながらも寝台の上にしっかりと横になって、眠る姿勢で眠っている。それに、あんな馬鹿気た格好を自分がするわけなどないし、甘寧が(時にそのような性格であっても)獣であるわけがない。それにあのような庭、見た事も聞いた事も、行った事もない。
甘寧に夢の話をしてみようかと思いついたけれども、すぐに消えた。
近くに長江の支流の江があるせいか、があがあと水鳥の鳴き声がせわしなく聞こえてくる。
ああ、うるさいな。

「今、昼? 夜?」
「昼だ」
「へえ、じゃあそんなに寝てないか。ここ幕舎だよな。行軍はどこまで行ったよ」
「あ? お前、何言ってやがる」
「何って、そろそろ軍議の時間じゃないの?」

甘寧は狐につままれたような顔で、こちらを見ている。変な事でも言っただろうか。夢のせいで変な気分ではあるけれども。
その時突然体に痛みが奔り、凌統はぐっと呻きながら背を丸めた。

(おいおい何だよ、こいつは夢と同じか)

思い出した。
そうだ、夏口の戦で父を討たれた直後、甘寧と対峙した際に受けた刀傷が原因だった。その後、受けた傷口も傷跡も見るのが嫌で、自分で傷の上から傷をえぐったのだ。
それで、奴から受けた傷などなかったことにしたのに。
どうして今、傷から血が流れはじめたんだ?
凌統は小さく舌打ちをして、身を起こして傷を舐めた。

「甘寧、どけよ。血を止める」

甘寧は眉間に皺を寄せて、じっと凌統を見ていた。凌統からすれば、それは夢の中の獣の姿をした甘寧と同じようで少し面白かったのだけれど、今は笑ってはいけない雰囲気を感じて、心に笑いを留めるまでにしておいた。
甘寧は凌統の言うままに、黙って凌統の側から離れたが、凌統から一瞬たりとも視線を離そうとはしなかった。
手当用の布はどこに置いたか、塗るような薬はどこか考えるけれど、甘寧の視線が邪魔で落ち着かない凌統は、甘寧のほうを向き直り、唇をやや尖らせながら言う。

「なんだよ。俺の顔になんかついてる?」
「寝てろ」

口に含むような声に、凌統は何だと強く言いかけたが、甘寧に力強く肘を掴まれ、そのまま体を後ろに引かれ、先ほどまで眠っていた簡易の寝台の上にどさりと横になってしまった。
凌統は起きあがろうと思ったのに、突然の眠気が込み上がってきてそうもいかない。
けれども、甘寧の言う通りにはなりたくない一心で、必死に口を動かした。

「寝てろ寝てろって、あんたはうるさいな。ああ、あのうるさい水鳥みたいだ」
「ああ?」
「次に起きたら、あの鳥の羽でもあんたの頭に挿してやろうか。はは、それも悪くないな」





甘寧はじっと、再び寝息を立て始めた凌統の寝顔を見つめていた。
そして、大きく溜息をつき、自らの顔を両手で覆いながら眠る凌統の傍らに腰を降ろす。

「お前、今行軍なんかしてねぇぞ」

自分らしくない、弱々しい声だ。
最近凌統の様子がおかしいのは知っていた。
先ほど眠る前に、凌統は血を止めたいと囈言(うわごと)のように言っていたが、血などどこからも流れてはいない。むしろ、凌統の体には傷一つもついていなかった。
凌統は「ここは幕舎か」とも言っていたが、実際ここは建業であり、凌統自身の房である。
水鳥はいるにはいるが、たった一羽だけだ。その一羽もまた、甘寧がここに足を運んだ時から鳴き声ひとつあげず、音もなく静かに池を泳いでいるだけ。
水鳥は水面を切り裂くように池に波紋を作り、池が映し出す建業の空は薄気味悪くゆらゆらと揺れている。
戦は続いているというのに、ここだけ平和を絵に描いたかのように変に静かで、どうして俺はこんなところにいるのだろうかという思いが甘寧の中に過って消えた。

凌統は濡須口の戦の後からここでずっとずっと、眠っている。
ふと目を覚ましても、眠る前に居た場所も行っていたことも忘れているのだ。

凌統がこうなった原因は、この世界の中で自分しか知らない。多分。

(俺は、お前を気に入ってる)

濡須口の戦のあとに、凌統に告げた言葉。
囲碁で勝負をと、凌統が仕掛けてきた時に告げた。

好敵手や友と認める気持ちが言葉の意味の大半を占めている。あとは僅かに閨で使う甘さを火の粉程度に、気づかぬように舌に乗せたのだけれど。
凌統は垂れた目を丸くして絶句していたな。それから、あんたは何を考えてるんだとか、馬鹿じゃないのとか、一通り吠えたあとに頬を染めてフンと鼻を鳴らしたのを覚えている。
その後、特に何があったわけではない。
目をあわす回数は減った。
話す回数も減った。
出逢いから比べれば、悪態をつくことはあれど濡須口の頃には既に互いを認め合っているような気がしていた。
こちらがそういう気になっていただけだろうか。いや、では戦での息の合い方はどう説明する?むしろ、凌統も全く同じことを思っていたとしか思えない。

(言いたい事そのまんま言えばいいのによ、クソ)

結局、凌統は自分のように言葉を伝えなかったからこうなったのだ。どうしたらいいのか分からず、仇からの好意という火の粉は甘寧の想像以上に凌統の内で大きく広がり、心を焼き尽くして。自滅だ。

でも、同じことを考えていたのなら……。

凌統の病状は、よくわからなかった。
最初はただ眠気を訴えているだけであったのに、日が経つにつれてみるみるうちに眠る時間が増えていった。
たるんでいるのではないかと叱責されても、飲食ができないほどに眠りふけ、とうとう戦の直前に倒れるように眠りについてしまった。
今や、五日のうち一刻か二刻ほど起きていれば十分なほど。
飯は邸の者が、時々甘寧も与えているか、筋肉は落ち、服の皺も増えた。
このままでは……。

「おい、凌統」

先ほどは声を掛けたら目を覚ました。だから、もう一度と思ったけれど、今度は一向に凌統の瞼は動かない。自分自身を焼き尽くすならばいっそ、出逢った時のような殺意を向けてくればいいものを。
甘寧は眉間に深い皺を寄せた。

(もっと声聞かせろや)
「おい」
(まだ、聞きたいことがあるんだからよ)

寝台に広がっている凌統の髪を一房手に取り、甘寧は唇を寄せた。
鈴の甘寧らしくない。
甘寧自身、次の戦に行かなければならない。また、陸遜はおろか孫権からも頭を垂れて凌統に顔をみせてやれと言われたが、甘寧自身言われなくてもそうしていた。

「凌統」

せめて自分だけはその名を、顔を、あの時の奴の表情を自分だけは忘れないように。
眠る凌統の瞼と、傷があると言っていた手に唇を落として、指先に凌統の髪の先端に触れて、甘寧は寝台に立てかけていた刀を手に房を後にした。
池を優雅に泳いでいた水鳥が、ざっと飛び立っていく。
甘寧は、ひらりと一枚降りてきた小さな羽を、拾い上げ、一人その場を後にした。






12012の「THE SWAN」からタイトルを頂きました。
途中までは6DLCのチェシャ猫甘寧と帽子屋凌統で、途中から4猛将伝或は5spになるかんじです。
さらに、この後に甘寧は夷陵に向かうという救いようのない続きがあるんですがやめました。
ツイッターで「お題をくださーい!」と呟いたところ某様から「その肌に刻むなら」というお題を頂きまして。
普通に考えてエロいことだったり殴り合いだったりが甘凌かなあと考えて、
でもそれじゃあ面白くないと思ってこうなりました。
いつにも増して二人が女々しいですが、こんなんもたまにはアリですかね?(松野ボイス)