感触(4甘凌)

これは誘惑以外の何でもないだろ。
窓の外のいい天気を横目で眺めた凌統は、頬杖をつきながら鼻を鳴らした。


なんとか勝利を収めた遠征先から本隊より先に撤退するため、凌統は夜通し馬を走らせた。
呉の中心街の邸に辿り着いた頃にはすでに空は白んでいて、すぐに寝台に沈んで仮眠をとったはいいが、疲れはいっそ清清しい程取れていない。
適当に水を浴びて眠気を無理矢理吹き飛ばし、髪を乾かしつつ城にある自分の房にやってきて、細々とした雑務をこなしていたら、昼過ぎになってしまった。
そんな凌統に倣いでか、部下数人も自己的にやってきて遠征の事後処理を行っている。
しかし。
一人が欠伸をすれば皆に欠伸が広がり、あちらで座る者はこくりこくりとうたた寝をし、こちらでは器用にも立ったまま寝る者までいる始末。

(やれやれ・・・みんな働きすぎだっての。)

「凌将軍、武器庫整理のことですが・・・」
「あ〜、いいよ。あとは俺がやっておくからさ、みんなにもう帰るよう伝えといてくれないかい?明日まで家でしっかり休みとってきなってね。」
「は、はあ。ですが・・・」
「いいんだよ。万全な状態で仕事してくれたほうがこっちも助かるからね。」
「では・・・」

部下は少し瞳を上下させ、小さくぺこりと頭を垂れると持っていた書簡を腕に抱えて去っていった。
やがて一人、また一人と、凌統のもとへ帰る挨拶をしに来はじめてしばらくすると房は静かになった。

昼飯を食べて、それから帰って寝て・・・いや、帰って寝るほうが先か・・・
本日何度目かの欠伸を盛大にし、ぼんやりと筆を走らせていると、開け放っていた窓から風が流れ込んできた。

ふいにそちらに目をやる。
その気持ちよさそうな様子といったら!

この房からしか入れない中庭だ。
己の父の後を受け継いだとき、この房も同時に与えられ、もれなく中庭も付いてきた。
北と西を壁で囲まれた中庭は丁度いい大きさで、庭の内容は華美でもなく質素でもない。
その場所にそれ相当の花であったり木であったりが、ちゃんと手入れされて咲き乱れてる。
最初は手入れの行き届いている花木たちに父の面影を重ねて、見るのも辛くて、いっそ潰してしまおうかとも思った。が、いつの間にかそう考えることはなくなっていた。
認めなくないのだけれど、多分、あの馬鹿のせいなのだろうが。
気がつけば、最初に房に入った時以来足を踏み入れなかった中庭は、手入れを怠ったせいで荒れ放題となっていた。
花に詳しいほうではない凌統は慌てて、草花に明るい部下を見つけて手入れをさせ、なんとか元の通りに庭は蘇った。

そんな中庭だ。
今は部下に手入れを少し教わって、自分でも少しだけ手を加えたりもしている。
左奥にある木は黄色の花を惜しげもなくちりばめ、手前では赤や桃色の花が咲き乱れ、太陽の光を緑が反射して煌めいているように見えた。
庭の真中はこれまた素晴らしい色合いをしたふかふかの新緑が敷きつめられている。
我ながら、いい中庭になったんじゃないの?
あそこに寝転がったらきっと気持ちがいいだろう。
空だってなんという空だ。
抜けるような青空には雲ひとつない。
また、風がゆるりと頬を撫でる。
誘惑の風だ。
熱くもなく冷たくもなく、弱くもなく強くもない、誘惑の風。

(ま、ちょっと休憩時でもあるかね。)

すこし執務が残っているが、ちょっとだけ。ちょっとだけ。
またやってきた欠伸を今度は上手くかみ殺し、中庭へ足を向けた。

足の下に感じる草が気持ちいい。
木陰に腰を下ろし木の幹に背中を預けて、少し首を上げる。

「・・・気持ちいいねえ。」

さわさわと揺れる葉と、空の青が爽やかで、抑えていた眠気が一気にこみ上げてきて凌統はそっと目を閉じた。

「おい凌統!いるか!?」

すぐにでも眠れそうだったのに、起こされてしまった。聞きなれた鈴の音と遠慮無しの声色は、苛立ちを生むあの馬鹿のものだった。
ここでいつものように“なんだよ、こっちは眠いんだっつの、アンタもさっさと帰って仕事しろよ”などと口を利いてもよかったのだが、それも億劫で。ここで眠りこけている振りをすれば、諦めて帰るかもしれない。凌統はそのまま黙って木にもたれて目を閉じていた。

「なんだ。いねーのかよ?」
そうそう、俺はいない。そのまま帰れ。
「・・・。ん?」
チリチリと鈴の音が近づいてくる。チッ、見つかっちまったか。
「・・・・・・寝てやがる。」
そうだよ、だから早く帰れって。起こしたら殺すぞ。
チリン。
鈴が目の前で鳴る。
「黙ってるとイイのによ。」
黙れ馬鹿。

「・・・。」

風が吹いた。
唇に、暖かい何かが。
何かが触れたまま離れない。

「・・・。」
「・・・。」

風が吹く。
けれど、密着した二人の間に入り込むこと敵わず、通り過ぎてゆく。

チリン。
「それ」が唇から離れ、鈴が惜しむように鳴いた。

「へへっ。」

空気が動き、鈴の音は遠ざかっていった。
一体。
一体あいつは何をしたのだろうか。あの感触は一つしか思い浮かばなくて、客観的に見たその様子を想像して、慌ててそれをかき消した。

ようやく凌統はゆっくりと目を開いた。

「・・・なんだってんだ、全く・・・・・・あの野郎、甘寧、馬鹿。」

わけがわからないままに軽い罵倒をしてみても、相手はそこに居ない。
どうしようもないまま、凌統は木陰に胡坐をかき、片腕で軽く頬杖をつきながら房の入口のほうを見た。
眠気は半分はあるけれど、あとの半分はあの風がすっ飛ばしてくれてしまった。
しかし、あの感触はやはり・・・

「ああもう!クソっ!寝させろよ!」

少し考えたところで我に返り、乱暴に立ち上がると房に置いておいた竹簡を2,3抱え、凌統は邸に向かって歩き出した。

あの感触は、あの感触は・・・
自分が知っている感触の中で一番柔らかくて暖かだった。







初めて書いた甘凌です。