頬を叩かれた感覚がして、瞼を開いた。
とうとう九泉へ行き着いたかとぼんやりと思えば、目に飛び込んできたのは3人程の民が自分を囲み、心配そうな顔でこちらを覗きこんでいたのと、その向こうの雲ばかりの空であった。
九泉にしては酷く現実的だと思う背の下には、冷たく細かい砂の感触。
体を起こしてみる。
毒による痺れは既になかったが、太ももに受けた矢傷がずきずきと痛み、全身がずぶ濡れで酷く寒い。この分では、数日は熱に悩まされるであろう。
熱くなってきた目を前にむけると、どちらに流れているのか見分けがつかない程にゆったりとした江。そして、民以外の人間は・・・自分の兵たちは誰もいない。
ただ、己の獲物である覇海だけは、身を横たえて脇にあった。
甘寧はこちらを見ていた民に尋ねた。
「ここはどこだ。」
「よ・・・揚州でさぁ。」
「俺はいつからここにいた?お前らが俺をここまで運んだのか?」
「朝からいたと思います。私たちが、貴方を運んだのではないです・・・。」
「ここには、俺だけがいたのか?」
「はい・・・。」
「そうか・・・。」
民たちは、上半身裸の、しかも龍の墨が入った身体の男と獲物に少しばかり怯えながらも、心配そうに様子をうかがっている。
「悪ぃ。水を一杯くれねえか。」
「は、はい。あのう、よければ火にあたっていきませんか?足も、怪我をなさっていますし。」
「すまねぇな、そうさせてもらうぜ。」
甘寧は立ち上がって、負傷した足を庇うように、江とは反対の町のほうへと歩いていった。
数歩進んでぴたりと立ち止まる。
僅かに顔を横に向けて、背後を見た。
己が倒れていた場所から江に向かって、濡れた砂の道ができているのが気になった。
「・・・。」
民の視線を感じて甘寧は再び前を見、歩き出した。
民たちの好意を受け、しばらく甘寧はその町に滞在することにした。
揚州とはまた大分流されたものだ。賊と刃を交えた場所よりさらに東に来ている。
甘寧は2,3日傷による熱にうなされていたが、それが癒えると己が水賊であることを民達に打ち明けた。
民達は一斉に息を飲み、そして、この近くの別の村複数が賊に襲撃され、警戒している所なのだと、民の一人が威嚇するように声を低くして言った。
しかし、甘寧はそのようなことをした事がない。別の賊であろう。それから話を聞いてみれば、別の村を襲った賊とは、今回甘寧が討伐するはずであった賊であったのだ。
複数の村を襲っているとは。奴らは南の大部分を掌握しているようだ。早く何とかしなければ。中央の連中では、歯が立たないかもしれない。
最初は甘寧を警戒していた民たちであったが、持ち味の人懐こさと面倒見の良さにすぐに心を許し、手厚く介抱され、足が癒えると近くを出歩いた。
甘寧は今日も、ふらふらと町の中を歩いてみる。
この町は、揚州の中でも割と大きな部類で、それなりに栄えていて、自警も簡単な防衛程度ならできているらしい。
また町を取り巻く風は、いつも僅かに潮の匂いがして心地よかった。近くに海があるのだ。一度くらい、船で繰り出してみたい。
甘寧は近くの酒場に入り、肉と酒を用意させた。
さて、まずは賊が完全に調子に乗る前に、逸れた野郎共をかき集めなくては。できるだけ早く。武器も、船も必要だ。しかし、ここが勝手知ったる地ではなく揚州とあっては、すぐに身動きが取れるわけではなかった。
ここで少しでも新たに味方をつけたいところだが、よそ者の己についてくる者などいるだろうか。
「ん?」
酒を運んできた男と目があった。男はやや垂れた目を綻ばせて、立ち去っていった。
「・・・。」
甘寧はとりあえず、酒を飲みながらその男を目で追った。
まずその体躯が気になる。他の人間より頭一つ抜きんでた高い身長は嫌でも目立つ。
簡素な赤い衣を一糸乱さず纏っているが、横を向くと厚い胸板に引き締った腰は服の上からでも分かる。武人に向いていそうだ。
ただ、その上に乗った顔は少し気にくわなかった。垂らしこむのが上手そうな優男。それを象徴しているのが右目の下の、まるで絵に描いたかのような泣き黒子である。後頭部のやや高い位置で軽く結わえた髪は長く、首を動かすたびに馬の尾のように揺れた。
つねに僅かに微笑んでいるのは、店に出ているからなのか、どこか不思議な雰囲気を持っていた。
甘寧は、近くを通った別の店員を呼んで、尋ねた。
「おい。あの野郎、何ていうんだ?」
「あ?ああ。あいつは旦那と同じで、最近この町に来た奴でさぁ。ただ口が利けませんでね。ここで世話してるんですよ。」
「話せねえのか。」
「ええ。でも耳は聞こえるし、字も書ける。どこから来たのか誰も知らないんだけど、どっかのお坊っちゃんじゃないかってみんなで言ってますぜ。よく働くし気も利くし、顔も割といいでしょ?だからうちの息子になれって言ったら、断られちまいましたよ。」
「名前は?」
「りょうとう。凌統っていいます。」
店員がぺこりと頭を垂れて仕事に戻っていった。
甘寧は教えてもらった名前を口の中で含むように何度か呟きながら、再び凌統を目で追った。
口が利けないといっても、戦に口はそれほど必要ない。耳が聞こえて、字も書けるのならば、それだけで戦術を伝えられる。
しかし酒屋の息子になれという申し出を断るとは、何か目的があってここにいるということになる。ただ、ここでずっと店員をやっているのも些か勿体ない。
凌統が近くの客に料理を運んで、こちらに近づいてきた。
丁度すれ違う。手を伸ばした。
甘寧が掴んだのは、凌統の赤い衣。
凌統が、驚いたように振り返った。
間髪置かず、甘寧は尋ねる。
「お前、泳ぎは得意か?」
凌統は何事かと驚いた顔で一つ喉を上下させ、やや時間を置いて小さく頷いた。
「お前、俺と一緒に喧嘩しねぇか?」
その言葉で、一瞬で辺りに緊張が走ったような気がした。が、甘寧はそんなもの無視して、じっと凌統を見つめて、衣を持つ手に無意識に力を込めた。
凌統は、目を伏せて瞳を泳がせる。店の主人がこちらに近づいてきたが、邪魔をするなとひと睨みすればその場で縮こまってしまった。
「ぶちのめしたい奴等がいる。けど、敵さんは大量でな、今は少しでも味方が必要だ。そいつ等を討ち取ったら、あとはお前の好きにしていい。悪いようにはしねぇ。どうだ、凌統。」
名を呼んだ時、だらりと地に伸びた凌統の指先が僅かに揺れたのを見逃さなかった。
ややあって、凌統は甘寧が持っていた衣の端を、身を捻ってその手から抜き取った。
その身のこなしは素早く、怒らせてしまったかと思った。
だが。
凌統は、甘寧に向き直って、小さく頷いてみせたのだった。
3へつづく
ちょっと特殊な設定なのです。