泡沫のあとに・4







出立の日は江も天候も穏やかであったから、民たちも必要以上に高揚せず、まるで仲間が少し遠くまで出稼ぎに行くような感覚でいるようだった。ただ、馴染みの深い人間は、見送りはいらないと言ってもやってきたけれど。
それは、甘寧を最初に発見した民たちと、凌統の世話をしていた酒屋の主人と店員たちだった。

(ちゃんと帰ってくるんだぞ?)
(・・・。)
(でも、お前が帰るところが他にあるのなら、そっちにちゃあんと行くんだ。凌統、お前が元気なら、それで十分だからな。)
(・・・。)

出航する前の、陸でのやりとりを甘寧は思い出していた。
手あわせのあとにも、甘寧は凌統の人気の高さに何度か驚くことになった。

まず酒屋の店主が、あまり使っていない船があるから凌統にと譲ってくれたのだ。それは艇(てい)で、船室が2つも付いている立派な走舸(そうか)であった。民が漁に出る時に使うそれではなく、軍船の走舸をどうして持っているのかと聞いたら、自衛のためにとあるところから“拝借”したのだそうだ。
それを二人にやるということは、命を預けるということに等しい。船は道中に江の上流に向かいがてら、その都度調達していこうと考えていたから、甘寧は素直に喜び、凌統は黙って拱手して頭を垂れた。

そんな凌統の腰の後ろには、真新しい両節棍がさしてあった。
凌統はあの鍛冶屋から新しい両節棍を送られていたのだ。手合わせをした時はただの金属の棒を鎖で繋げた簡単な棍であったが、鍛冶屋が二人の喧嘩を見て、いても立ってもいられずにその両節棍を作り上げ、“怒涛”という名まで作っていたそれは、金の龍の意匠が施された赤い棍で、凌統によく似合っていた。
それから、手合わせに感化されたのは、鍛冶屋だけではない。ただの見物人に過ぎなかった民たちの中から、二人についていきたいという者たちが現れたのだ。
その民たちは、どちらかというと凌統より甘寧の武に惚れた男たちであり、どうしてもと言って引き下がらないので、甘寧は船の櫓手として4人だけを連れていくことにした。


出航してしばらく、甘寧は船室の寝台に寝転がっていた。
櫓手の男たち4人はいずれも船に慣れていて、艇の扱いもすぐに慣れ、今は風を捉えて漕ぎ手は2人ついているのみ。
ゆらゆらと揺れる船は久しぶりで心地よく、静かに目を閉じて水の感覚を味わっていたのだ。

ふと、また瞳の裏に水の映像が映った。
今度は青白いそれではない、真黒な水の渦と白い水泡が入り混じった、水の渦の中にいる風景。

(何なんだ。ったくよぉ。)

水賊である甘寧自身、江に入ったことも水の中の記憶も巨万とある。だから、どこでどうなった時のことが全く分からなかった。
ただ、凌統と刃を交えてから、どうも水の匂いが濃くまとわりついているような気がしてならないのだ。
江の上を走っているのだから水の匂いはして当たり前なのだが、どうも江の匂いとは違う。もっと別の水の匂い・・・。
それは決して不快なものではなく、むしろ心地いい匂い。

「・・・わかんねぇもんはわからねえな。風に当たるか。」

体を起して甲板に出ると、外は既に夕暮に差し掛かっていた。江の水面は穏やかで、夕日に照らされて、水面に浮かぶ泡が朱色の網の目のようになって美しく輝いている。
その水面を、甲板で佇みながら眺めている横顔があった。
甘寧は息を飲む。

「凌統。」

その名を呼ぶと、それまで無表情に近かった凌統が、穏やかに笑いながら振り向いた。
まただ。
また瞼の裏に水の中に飛び込んだような映像が映りこむ。

「お前、何してんだよ。」

映像をかき消すように一度強く瞼を閉じてから尋ねると、凌統は甘寧を見て不敵に笑ってどこかへ行ってしまった。
が、すぐに戻ってきた手には、酒瓶と杯が二つ。甘寧の前にやってくると、杯の一つを差し出してきて悪戯っぽく肩を竦めた。

「・・・。」
「飲めってか。」
「・・・。」

凌統は嬉しそうに深く頷いてみせた。
しかし、すぐに甘寧が手を出さないことを不思議に思ったのか、凌統は少し首を傾げて、杯に酒を満たして再びこちらに突き付けてきた。
それでも甘寧はすぐに腕を伸ばさない。
なぜか、手を出したら後には戻れない気がしたのだ。何か、大きな渦に巻き込まれるような感覚がする。
どんなに不利な戦よりも覚悟のいる、壮大な駆け引き。
痺れを切らしたように、凌統は自分の杯に酒を注ぎ、一気にそれを呷った。唇の端から酒が首を伝ったのを腕で拭い、横目でこちらを見つめてくる。
僅かに微笑んでいる唇は、いつものそれではなくて明らかに挑発であった。

(俺を挑発するとはな・・・。)
「・・・本気でお前、何がしてぇんだ。」
(さあね。秘密だよ。)

そんな言葉が聞こえてきそうな凌統の笑みを見ながら、甘寧は杯を手に取って酒を呷った。
また水の香りがする。
夕暮の長江は、今も穏やかである。







5へつづく。