泡沫のあとに・5







揚州の町を出て、数日が経った。
真夜中に江岸に小さな村を見つけて、甘寧たちは補給がてら気合を入れなおすために停泊をしていた。
兵糧の入った木箱に腰をおろして、やや前方で兵たちに指揮をしている凌統を、甘寧はぼんやりと見つめていた。

凌統はよく働いた。
見張りも櫓手も、飯の調達も、船の点検も細かいこと全てに目が行き届く。
そしてやはり喧嘩も強い。
船を進ませていると、時々名もない賊たちとの小さな小競り合いになったりするのだが、真っ先に敵の船に乗り込む時は誰よりも多く敵を倒し、甘寧の傍にいる時は面白いくらい呼吸がぴったりと合うので、安心して背中を任せることができた。
おかげで賊の船を奪えたし、散り散りになった仲間も、僅かずつだが合流し始めている。
だから、兵が増えた今は、隊を二つにわけて、一つは甘寧自身が指揮して、もう一つの指揮は凌統に任せていた。

凌統は矢張り人もよかった。
ただの真面目ではなく、停泊した江岸の村で、民に何者かと尋ねられて甘寧が賊だと応えれば、脇にいた凌統は思いっきり首を横に振るくらいの茶目っ気も持ち合わせているし、一緒に策を練っている時に、駄目出しとして、甘寧のこめかみあたりを小突くなど、遠慮も無くなっていた。
それから、甘寧と手合わせして負けたのがよほど悔しかったのか、何度か勝負を挑んでくる。鍛錬を見てくれと兵達に囲まれている場面に出くわしたこともある。野郎共からも慕われているようだ。

それに対し、甘寧はといえば、水の夢を頻繁に見るようになった。
光を帯びた濃い水色の風景が、ゆらゆら揺れているだけの穏やかな夢もあれば、戦に負けて溺れた時のような、息もできず身動きが取れないのに、水の泡のようなものが体中に入り込んでくる夢も見た。
そうして水の夢から覚めると、決まって体が水の匂いに包まれているのだ。
まるで水の媚薬だ。
そんな媚薬は、凌統と出会った頃から付きまとっている。
凌統から目が離せないのだ。
目に見えない力、中でも得体のしれない力は信じないと決め込んでいるが、自然と引き込まれていくのが嫌でも分かり、さてどうしたものかと甘寧は眉を潜めた。

(・・・なぁんか、な。)

そんなことを考えていたら、頭と腰のあたりに違和感を覚えた。

「ん?あっ!!お前、何しやがる!!」
「・・・、・・・。」

咄嗟に顔をあげると、凌統が立っていた。その手には、甘寧のガチョウの羽と、腰の鈴が一つ。

「てンめぇ・・・返しやがれ!」

甘寧が伸ばした手は空を切り、凌統は得意げに肩をすくめながら舌を出して笑い、そのまま、どこかへ走り去ってしまったのだ。
追おうにも凌統の足は素早い。姿も気配も見失った。
何がしたいのかさっぱり分からなかったが、きっとただの悪戯だろう。帰ってきたら少し灸を据えてやるかと、甘寧は仕方なく船の点検をするため、腰を上げた。





「兄貴、兄貴!!知らない船がこっちに近づいてきます!」

船室で仮眠を取っていた時、兵の声に甘寧は飛び起きた。
すぐに見張り台に昇って目を凝らすと、下流のほうから小さな赤馬がこちらに向かってくる所であった。
やってくる船のほうから声がした。耳を澄ませばその声は段々大きくなってきて、“兄貴”としっかり聞きとれるまでになった。
まさか。
甘寧は見張り台から飛び降りて、甲板に出、船の縁から身を乗り出した。
すると突然真下の水中に波が立ったかと思えば凌統が現れて、甘寧は驚いて船の縁から飛びのいてしまった。

船の縁に音もなく手をかけ、ずぶ濡れになった凌統が頭のてっぺんからゆっくりと姿を見せた。
髪は先ほどと違って結わえておらず肩に垂らしたまま。上半身には衣はなく、やや白い肌が露わになっている。
唇には、己から奪ったガチョウの羽を銜えていたのだが、無意識に喉が鳴った。

凌統の姿はどこか不気味であったが、妖艶な気配も感じた。
人間味のない姿。なのに何故か目が追ってしまう。
顔にへばりついた髪の隙間から目がのぞく。
その瞳と口元は怪しい笑みを作っていた。
ああ。
どうして心臓が煩い?

甘寧が立ちつくしている間、凌統は軽々と船に乗り込み、すぐに横についた赤馬に乗った兵たちを一人ずつ引っ張りあげた。

そうして船に乗ってきた兵達は皆、散り散りになった者達で、泣きながら甘寧のもとに走り寄って来たので、甘寧は我に返って兵たち一人一人の顔を見ながら激励した。

「兄貴ィ!俺等、ずうっと兄貴を探してたんですよお!」
「どこ行っちまったかと思って・・・死んじまったわけないと思って・・・でもちょっと諦めてました!」
「また兄貴と暴れられるなんて、夢みたいでさぁ!」
「おう、悪かったな。・・・お前らどうして俺がここにいるって分かったんだよ。」
「あの兄さんが、兄貴の羽と鈴を持って現れたんです。」

兵が指さしたのは、濡れた体を巾で拭いて、上着を羽織っている凌統であった。
視線に気付いた凌統は、こちらに近づいてきて、借りていたガチョウの羽を甘寧の額の巾に戻してにっこりと笑った。

「それで、あの兄さんに兄貴のことを聞いたんですけど、全然喋りやがらねえし、でもずっと俺等を見てるし、付いてこいって顔をしてたんで、兄貴を知ってるんだと思って信じて付いてきました!」
「凌統、お前、俺の羽と鈴でこいつ等を呼んできたのかよ。」

凌統は嬉しそうに深く頷いて見せた。
だが。
甘寧は厳しい顔をした。

「なあ凌統。お前、何者だ?」

遠慮なしに凌統の喉元に覇海の切っ先を向ける。
凌統は、その場に立ち尽くしながら、意外そうに目を見開いてみせた。

「野郎共が次々に見つかって、船も武器も上手いこと集まって・・・。運ばかりが付いて回るのは気持ちいいもんだが、運だけで勝つのも、余計なお世話もいらねぇんだよ。俺はもっと自分の腕で生きていきてえんだ。そこまでされると疑っちまうなぁ。俺の首を狙ってるなら、とっとと失せな。」

すると、凌統は悲しそうな顔をして俯いてしまった。
そして肩を落としながら、歩幅小さく、船の縁のほうへ向かう。

「お、おい。」

凌統は、船の縁に立った。

「おい、何しやがる、凌統。」

そして江の中に飛び込んだのだ。
飛び込む映像はどうしてかゆっくりと流れて見えた。
つま先から体が江に吸い込まれゆき、とうとう髪の先が見えなくなって、波飛沫が立ちあがるその様はまるで身投げのようで。
甘寧は兵たちとともに船の縁に慌てて近寄ったけれど、その時には既に江のどこにも凌統の姿は見えなくなってしまった。

江の底に向かって叫んだ名前まで、水の渦に吸い込まれ、甘寧は無意識に船の縁を強く叩いていた。







6へつづく。
※艇=櫓手2人で動かす小さな走舸の一種。赤壁で黄蓋が乗った船。
※走舸=小さな高速船。漕ぎ手は多いが兵は少ない。赤壁で黄蓋は艇に乗って火をつけて、走舸に乗りかえて撤退した。
※赤馬=遊艇のうちの一種。走舸より小型で小回りが利くので、斥候・伝令などに使う。赤く塗ってあるのでこの名前。赤兎ではない。