江を昇れば必然と、朝夕の気温が涼しくなったが、それでも日中は暑い。
甘寧は忙しなく船の上を歩いて、兵たちに声をかけ鼓舞して回っていた。
元々そういう立場ではあるのだが、そうしなければ、柄にもなく落ち込んでしまいそうなのが一番の理由。
凌統が水の中に消えてからも、水の中にいる夢は見るし、水の匂いもしっかり存在している。むしろ匂いはより一層濃くなった気すらするのだ。
自分自身が江の匂いを忘れていただけで、本来はこんな風にずっと体に寄り添っている物なのかもしれない。
それを、凌統は思い出させてくれただけのこと。
・・・いや、死んだように言うのはやめよう。奴は死んだかもしれないし、生きているかもしれないのだ。
第一不透明な可能性は、口にしたり考えることも好きではないし。
けれど、そんな風に思うのは僅かな望みを抱えているからで、凌統の死体が浮いてこないからだった。
そのへんから浮かんでこないかと、そっと船の縁から江を覗いてみるが、当たり前のように、江の水面を切り進む白い波しか見えない。
(くだらねえな。元に戻っただけじゃねえかよ。)
己の弱まった思考にため息をついた。
甘寧は無理矢理切り替えようと船室に入った。
そう、ただ元に戻っただけ。
一人の賊として、一人の仲間を失っただけ。
むしろ昔の兵たちだって半分以上が集まり、武具も船も、奇襲で敵を突くぐらいはできそうな状態になったのだ。
凌統に預けていた兵も、全て自分が引きあげて纏めて統率している。
これからが勝負だ。
甘寧はまず、合流した兵一人ひとりから、それぞれが居た場所の話を聞いて、敵の縄張りを確認しようとした。
それによると、敵は揚州を除く長江流域の大部分を掌握していた。それは、以前の甘寧が有していた勢力圏そのものであり、乗っ取った状態に等しい。
奪われたものは返してもらわなくてはならない。そのためには、親玉のいる根城を一気に突いて、駿足でもって首を取らなければいけない。
一度大勝を記したのだ、相手は油断しているだろう。
確実に首を取っていないうちの勝ちの確信は、即ち負け。やるなら今だ。
しかし、敵の根城を特定するのがやっかいだった。敵は他勢力からの攻撃を防ぐため、根城としている砦を次々と変えているようなのだ。その周期や、どこの砦を使っているのか。兵の話を聞いてもどこだか検討もつかない。
予想を立てるとするならば、南郡より東の…
「夏口、樊口か。」
甘寧は腕を組んで考えた。
己の存在を意識して敵が警戒する所、そして迎撃しやすい場所。
そうなると、漢水と長江が交わる夏口の上流に船を潜ませれば、それより下流の樊口に砦があったとしても上流におびき寄せ、或いは上流から急速にかけつけて攻撃ができる。
だが、予想ではいけなかった。確実に仕留めなければいけない。
「兄貴、ちょっといいですか。」
船室へ一人の兵がやってきた。
その男は昔官についていた男で、読み書きができるので副官に使おうと思っていた男だった。といっても、武は凌統よりもずっと劣っているので、比べるべくもないのだけれど。
この男は、数日前に凌統がいた時まで、凌統に預けていた隊のうちの一人でもあり、凌統が消えてから甘寧同様、ずっと凌統を探し続けている。
「兄貴、凌統の兄さんが使ってた船室に気になるものがあって、少しだけ拝借してきました。」
甘寧は、凌統の船室はそのまま残しておくように伝えてあったので少し眉を寄せたが、それでも、男は卓の上に広がっていて気になっていたのだという。
男が開いて見せたのは地図であった。
しかもとても細やかな。特に長江に関しては、上流から下流まで、本流も支流も、どんなに僅かな江であっても書きこまれていて、その全てが長江に合流していて実に正確見事な地図であった。
それだけではない。江近くの砦や、水かさまでもが書いてある。山岳地帯はやや不透明な感覚はしたが、それでも水賊相手に使うとなれば、これで十分すぎるほどだ。
「・・・凄ぇ。」
思わず感嘆の声が漏れた。
これで上手く陣形も考えられる。必要となれば、陸を辿っていくことも可能だ。
だがそれでも敵の親玉がどの砦にいるのか分からない。
兵力を削ぐことはしたくないが、斥候を出すしかないか・・・。
「おい。」
「はい。」
「目と耳が利く、足の速ぇ奴を20人くらい集めておけ。斥候に使う。それから、赤馬と艇、全部点検しておけよ。」
「分かりました。」
兵が船室から出て行った後、甘寧はぼんやりと地図を眺めた。
凌統が書いたのであろう、文字を指で辿ってみる。
細い筆ではあるがやや癖の強い字は、確かに革の上に刻みこまれている。
凌統は一体どうしてこんな物を残していったのだろうか。いっそ、跡形もなく何も残していかないほうがよかったのに。
それも、こんなにも必要としている物を。
もっと必要のないもの・・・例えば、帯とか髪留めとか、そんなものならばすぐにでも江に流すなり覇海で微塵にしてしまうところであるのに。
「厄介なもん、残してくれやがって。」
卓に頬杖をついて、窓の外を眺めた。流れる景色の空は灰色めいて、この空のような水の風景も夢に見たことを、甘寧は思い出していた。
7へつづく。
ちょっと地名が多いですね;