泡沫のあとに・7







「兄貴―!兄貴―!!」

甘寧は、再び補給のための停泊をしていた。今度は、少しばかり期間が長い。
錨を下ろしていた江岸には一見何もなかったが、やや陸のほうへ歩いていくと村があった。そこで兵糧を調達し、賊の動向を探っていたのだ。
甘寧自身も兵糧の積み込みをしていた時、楼台に乗っていた見張りの兵が慌ただしく目の前に転がり込んできた。

「何だ、敵かぁ!?」
「違います!!凌統の兄さんが・・・凌統の兄さんがいました!」

その言葉に甘寧は、兵が全を言い終わる前に、踵を返して船に乗り込んでいた。




凌統は、江の真ん中あたりに突き出ていた岩に引っかかっているようにして、体を横たえていたらしい。
すぐに赤馬で岩まで進み凌統を乗せ、甲板にあげる。
凌統の姿は酷い有様であった。体中に無数の切り傷に擦り傷、鮮やかな赤の武闘着は所々赤く染まり、切り裂かれた腿は肉が見えた。
そして首筋に、刃が掠めたような赤い筋が一本あって・・・凌統が何をしてきたのか、甘寧は一目見て分かってしまった。

「凌統!」

しかし、そのような体であっても、凌統は意識を失ってはいなかった。
むしろ甘寧が抱き上げようとすると、凌統はもがいて暴れながら何かを探す素振りをみせ、体中の激痛に顔を歪ませた。

「馬鹿野郎!死にてぇのか!いいから大人しくしてろ、てめぇの話は後で聞くからよ!」

暴れる凌統をなんとか船室に突っ込み、治癒の心得がある兵も飛んできて凌統の服を脱がしにかかった。それでも凌統は甘寧の腰の辺りの布を掴んで離さず、じっと強く甘寧を見つめ、はじめて・・・必死に口を動かして何かを直接伝えようとしてきた。

「・・・っ!・・・、!」

しかし凌統の声は、まるで空気に溶けているかのように音を持っていなかった。甘寧は凌統が本当に話せないことを実感して、妙に冷静に息を飲んだ。
やがて凌統は痺れを切らしたのか、声の出ない己の体にもどかしさを感じたのか小さく舌打ちをして、腕の傷から流れる血を指に擦りつけ、近くの床に何かを書こうとしたので、甘寧は慌てて筆と板を持ってこさせた。

そして凌統は、震える腕で筆を持ち、文字を書きだした。


敵、親玉、場所、次の満月 南昌手前の砦に移動。
兵、十万 船、闘艦多し。火に弱い。


凌統が筆を進めるのと同時に、甘寧は目を見開いていった。
乱暴に書き殴った文字は、まさに欲しかった情報だ。
そこで凌統は力尽きたように筆をぼとりと落とし、大きく肩で息をする。それでも傷の痛みに顔を歪めながらも何かを探して首をめぐらした。甘寧の横で一緒に凌統のことを見ていた副官の男が、何か察して卓の上に置いていた地図を凌統の前に差し出すと、凌統は震える手を伸ばして、指についた血を地図上にぽつぽつと落としていった。
その場所は敵の砦。血痕を二度垂らした南昌が、本拠地であろう。

「凌統!?おい、凌統!」

そこで突然凌統の腕から力が抜け、静かに瞼を閉じた。





その夜の波は穏やかで、凌統も安心して眠れるだろうと甘寧は思った。
兵達にはすぐに、南昌の砦を攻める準備にかからせた。
部隊は二つに分ける。一つは江から主に艇を使って攻める。もう一つは、陸を進軍して砦に奇襲をかける部隊。
艇の多くには油や薪を積み、火計の準備をさせた。
南昌の砦は、甘寧も使ったことがある。
砦の奥に大きな湖があるのだが、常に湖に向かって吹き抜ける風が流れていて、南昌の砦は風下にあたる場所にある。火を使えば、またたく間に広がるであろう。
それらの準備の大半はは、副官のあの男が丁寧に進めていた。

そして甘寧自身はずっと眠っている凌統の横にいた。
凌統はか細くではあるが、息をしていた。

「一人で敵陣に押し掛けたってのかよ・・・。馬鹿野郎が。」

甘寧は、ささくれ立った自分の親指を弄びながら、じっと凌統の寝顔を見つめていた。
凌統はどうしてここまでするのだろう。
あんな風に疑ったのに、どうして。
尽くされることには慣れていない。まず恩を売ったことがないからだ。
否、売ったことはあるのかもしれないが、甘寧自身はそれを恩とは思っていないだけのこと。
だから、凌統はそのうちの一人なのかもしれないが、全く思い出せない。
しかしこれほどの武を持っている人間ならば、直ぐにでも思い出せそうなのである。

ふと、少し前に兵が言っていた“人魚”という単語が頭の中を過った。

「・・・。」

例えば、人間ではないとして。
この乱世、恩に託(かこつ)けて己のいいように利用する人間はいくらでもいるのに、命を張ってまで尽くす者といったら、本当に数えられる程度であろう。
この世に蔓延る人間のどれよりも、目の前に横たわる男は、純粋なのだ。

さあ。
凌統の姿を見て一番安心したのは誰だ。
もう一度会いたいと願っていたのは誰だ。
ゆらゆらと揺れる江の匂い、水の匂い。
それは誘惑の匂い。

甘寧は、寝台の上に広がる凌統の長い髪を少し掬い取った。
そっと口元へ寄せると、髪にこびりついた血のにおい深くに、水の匂いがした。
瞳の奥には、また水中の映像。今度は水底に溜まった泥寧が魚の尾のようなものでかきまぜられて、視界が濁る映像。
そんな映像よりもっと見たいものがあって、瞼を閉じて再び開けば凌統がいた。
傷を労わるように、羽を落とすように柔らかく上からそっと抱きしめてみると、凌統の体は息をしているのが不思議なくらい、とても冷たかった。

「・・・。」

そして、眠っている凌統の濡れた唇に、自分の唇を落とした。

初めからこうしていればよかったのかもしれない、頭の片隅で思った。







8へつづく。
※闘艦:小型戦艦。二層作りで敵船に突撃したり、弓弩の発射のための小窓がある。接近戦での主力艦艇。櫓手は20人弱。