泡沫のあとに・9







目を覚ました凌統は、場所を確かめるようにしばらく焦点の合わない瞳を彷徨わせ、やがて甘寧の姿をとらえてまどろんでいた。

「・・・凌統。」

甘寧は、直前までの自分自身への慰めや、凌統が目を覚ましたことへの安堵や労り、体を張って一体何をしてきたのかという怒りめいた問い、さまざまな感情が一気に喉元まで押し迫ってきたけれど、結局ついて出たのは名前だけであった。
だが、首元に白い精がかかった状態で、ゆっくりと瞬きをする心ここにあらずな凌統は、一度萎えたものがまた首をあげるには十分な姿であった。
凌統の目線が、己の顔から下へ下がっていく。

「!?」

その瞳が甘寧の股間を捉えた途端、凌統の全身の毛という毛が逆立ったように見えて、当然の反応だな、と甘寧は一人苦笑い。
それから凌統は、己の首のあたりがおかしいことに気付いたのか、恐る恐る己の鎖骨の根元あたりに手を伸ばした。
妙に大きく響いたぬちゃりという音。
凌統は掌に付いたそれを見て、愕然とした表情で一気に青ざめてみせる。
そんな凌統の反応を、甘寧は流石に申し訳なく思いながら、同時に少し面白くてつい噴き出してしまった。

「〜〜〜〜〜、・・・っ!!」

突然、甘寧は意識が混濁した。
凌統が、腹の上に乗っかっていた甘寧の側頭部を、思い切り蹴り飛ばしたのである。





目が覚めると既に陽がさしていて、隣に凌統はいなかった。
甘寧は未だにちかちかする視界を何とかしようと、強く目を閉じてから、首を鳴らして船室を出た。

(くっそ・・・思い切りやりやがったな、あいつ。まあ、仕方ねえか。)

さて、今日の夜は満月。
晩夏だというのにむせかえるような蒸し暑さは相変わらずだ。夜はどれくらい熱くなるだろう。きっと冷えることはない夜になる。
船の点検は敦一させている。武器も、兵糧も。別働隊は潜んでいるだろうか。
もう一度点検して兵を鼓舞したら出向する。心が躍った。

船や兵すべてを見て回ろうと、甲板を歩きだしたら、瞳の端に水面に動く影が映った。
凌統であった。暑い中江を泳いでいる。
いつかのように凌統は髪を解いて上半身裸の姿で、江の上を滑るように泳ぎ、江の流れに渦ができれば、大きく息を吸って江に潜って深く重い流れに消えた。
甘寧は再び凌統が消えたのではと思い、思わず船の縁から身をのりだしたが、すぐに少し離れた場所から白い凌統の体が浮上してきて無意識に肩を撫で下ろした。飛沫をあげながら勢いよく水面から体を出し、空を仰ぐように大きく息をつく姿は魚のようだ。
凌統は甘寧が見ていることに気付いておらず、何度も江に潜る。江の流れに逆らうように潜っては浮上する凌統に笑みはなく、いつしか甘寧も真剣に眺めていた。

江の流れは普通の人間では足をとられてすぐに流されてしまう。
それでも凌統は繰り返す。
まるで浮いた熱を冷やすように。
まるで何かを洗い流しているように。

深くうねりを孕んだ深淵の底に、己の存在を確かめるに行くかのように。

凌統は仰向けになって、全身を水面に浮かせた。
空を仰ぎながら瞼を閉じた。
濡れた髪はゆらゆらと水草のように波を漂い、上半身の肌の白さが江の黒に浮かび上がっていよいよ凌統が人間ではなく見える。
甘寧は妙に胸がざわついて、目を覚ます前の感情が再び暴れそうになった。

「!!」

凌統が甘寧に気付いた。
その途端、逃げるように再び水に潜ってしまって、甘寧は素直に顔を歪ませて惜しむようにその場を後にした。





しばらく時を待ち、空が赤く燃える夕暮れになってから、静かに全船を溯上させた。
甘寧は何事もなかったように凌統を傍において、時々意見を求めながら船を進めている。
凌統は特に逃げるでも避けるでもなく、甘寧の言うがままに傍らにいて、甘寧の問いにも素直に頷き、指をさし、何らかの方法で普通に応えているのは今までと同じであった。
しかし、以前より雰囲気が変わったのは、気のせいではないだろう。
少しだけ影ができたような気がする。それは軽蔑や絶望など、甘寧に対する感情ではない、もっと凌統自身が自分に対する深い何かを考えているようだった。
けれど、凌統は己の感情を伝える術は体の表情と文字しかなく、また伝えようとしてこない。
それでも、甘寧の目が届かない所で、思い詰めたような鬼気迫るような顔をして江を見つめているのだから、きっと余程のことだろう。
甘寧は凌統のすぐ隣にやってきて、瞳は前を向いたまま口を開いた。

「礼を言うぜ。」
「・・・?」

他の兵たちには聞こえない程の小さく低い声だった。
そういえば、言っていなかった礼の言葉。
凌統は甘寧の顔を覗き込んで、甘寧の言わんとしていることを探ろうと首をかしげる。

「お前を揚州で拾わなかったら、こんなに早くにあいつらをぶっ倒せなかったかもしれねぇ。」
「・・・。」
「だからよ、お前、俺の隣にいろや。」

凌統が一瞬だけ寂しそうな顔をしたのを、甘寧は見逃さなかった。
だがそのすぐ後に凌統は穏やかに笑っていた。

「・・・、・・・。」

凌統は僅かに口を開いたけれど、何も声に出来ずにすぐに閉じてしまったので、表情の真意は掴めない。
むしろ、開いた唇は己の唇をせがんでいるように見えて、甘寧はつい凌統の後頭部に腕を回し、乱暴に頭を寄せて唇を奪った。
途端に顔を真っ赤にした凌統の平手打ちが頬に炸裂、あたりにいい音が響いた。
こんな風に怒りを露わにするのも悪くない。
甘寧はそっと笑った。

穏やかな一時、船は静かに波間を抜けてゆく。






10へつづく。