泡沫のあとに・12







次の日、凌統は消えていた。
その次の日も、その次の日も。
最初は、また江に泳ぎにいったのではないかと思って、船から何度か江を眺めてみたけれど、どこにも白い肌をした男の姿も、影すらも見えなかった。
兵も最初は必死になって探していたけれど、何の手掛かりもなく、甘寧が落ち着いて普通にしている姿をみているうちに、そのうち誰も探さなくなり、やがて凌統は過去の人物となりつつあった。

凌統が一番出入りしていた船とその船室はそのまま残してあって、副官にすら、入るなと告げてある。いなくなってから何度も、今日は戻っていまいかと覗き込んで足を踏み入れたりもした。

今日も何となく船室へ入ってみて首をめぐらせてみるが、特に何も変わっていなかった。
凌統は何も残さなかった。見事なくらいに、何もだ。

その時風が吹き抜けて、船が揺れた。
僅かに枕元のほうから物音がして、すぐにそちらのほうへ言ってみる。
枕を避けてあったのは、竹簡だった。
すぐに紐を解いて、中を覗き込んでみた。
最初に”甘寧へ”とあった。
心臓が妙に早く高鳴る。





“甘寧へ、あんたがこれを見ているということは、俺はもう消えてるってことだ。

あんたも薄々気づいていただろうけどさ、俺、人じゃないんだ。
あんたはそういうの信じないたちだってのは知ってるけど、でも本当だ。
俺の本当の姿は人魚なんだ。
俺は、多分この世で唯一生き残ってた人魚だったんだ。仲間はみんな、とっくの昔に死んじまった。

まあ、それはともかくとして。あんたは覚えてないだろうが、俺はずうっと昔、あんたに助けてもらったことがあるんだ。
魚に変身して、長江を泳いで昇るのが好きでさ。あの時、たまたま船団の波に巻き込まれて岸に打ち上げられちまった。
それで、あんたが俺を江に放してくれて…。よくもまあ、焼いて喰われなくて済んだと思ってさ。その受けた恩をずっと返したくて、覚えてたんだ。
それであんたがどこの誰なのか、毎日のように江を泳いで調べた。ま、俺の武と体はその時にできたもんだったんだろうね。俺の武、よかっただろ?
それで…人魚の俺があんたに恩を返すことができるのかってことも考えた。
でもまずは、あんたと会わなくちゃいけない。
だから、知ってる導師にお願いして、人間になれる呪文をかけてもらったんだ。
その時の条件は三つだ。

自分の正体は絶対に明かさないこと。
成就したら、江の泡になってしまうこと。
呪文の対価として、俺の声をもらうこと。

承諾したよ。
どうしてもあんたに逢いたかったんだ。
だから、俺の声は出なくなっちまったんだけれど、おかげで自分の正体を言わずにいれたし、よかったのかな。
それで、あんたに逢った。
しばらくは俺があんたにできる恩返しが見つからなかった。
でも、見つけちまったんだよな。
あんたの思いに応えることこそが恩返しだってね。
自分でも健気すぎて笑っちまうよ。
もっと一緒に居たかったけど、それで俺も満足、あんたも満足なら・・・いいのかな。
・・・でも、本当は、あんたと声を出して話したかった。
あんたの周りはいっつも賑やかで、楽しかった。
本当だぜ?
あんたに恩返しするつもりが、また俺が沢山貰っちまった。
これなら、泡になっても・・・いいかなって思うんだ。
あんたのこと、好きだったよ。
だから、あんたに呼ばれて嬉しかった。

ありがとう、甘寧。





遺書だ。
そして、恋文でもある。
まるで凌統と対話しているようだった。
でも、お前はどんな声をしているんだ?
わからねぇじゃねえか・・・!
甘寧は書簡を握りしめながら泣いていた。
きつく胸に抱いて、凌統の寝台に頭を押し付けて。抱いたぬくもりを、表情を思い出しながら一人嗚咽を漏らしながら泣いた。






13へつづく。