Ein Meer wand sich(甘凌)






甘寧とは、甘寧が孫呉に来て以来、任地を離されている。だからといって凌統は、一時たりとて怨念を忘れたことなどない。

思えば孤独だったのかもしれない。
この乱世、親を殺された子は星の数ほどいよう。仇敵が仲間になった者もいよう。けれど、それでも「乱世」の二文字で割り切るには、凌統が失ったものと残ったものは、余りにも大きすぎた。
父を失った悲しみと憎悪に駆られて仇打ちをしようにも、孫家の下で働く武官という地位が立ちはだかる。
それは父が確立した凌家の立場だ。また、凌統自身を慕って付き従う者もいる。そんな父の遺産ともいうべき者たちを、衝動的にかなぐり捨てることは、凌統はできなかった。
それならばいっそ、仇を討てない己の心も体も、ぼろぼろに斬り刻んでくれと前線に向かう。しかし、決死の覚悟は裏目に出て武勲を積む一方であり、凌統の内の宿念もまた、長江の底に積もる泥のように、わだかまる一方であった。

だから凌統は、穏やかな心の裏に烈火の如く燃え盛る情念をひた隠し、死に場所を求めるように各地の戦場を転々と動いていた。


仇は突然目の前に現れた。
呂蒙が武将たちを邸に招いて、酒宴を開いた時。声のかかった凌統もまた足を運び、広間に足を踏み入れた瞬間、あの忌々しい姿を捉えたのだ。
思わず足を止めてしまった。
仇が目と鼻の先にいる。
腕を伸ばせば触れる所にいる。
どんなにこの時を待ちわびたか。凌統は喜悦に震え、闇の中で眩暈を覚えた。


既に酒宴は終わり、酒宴の最中に思いついた剣舞を装っての仇討ちは、失敗に終わってしまった。しかし、隠し抑え込んでいた憎悪は堰を切ったように溢れ出し、もう抑えることはできなかった。

「・・・。」

一緒に帰るという名目で他の将たちに監視されながら自邸に戻った凌統は、裏口から再び外に出た。
呂蒙の邸で使った剣は取り上げられてしまった。代わりに匕首を懐にしのばせ、静かに闇の中を静かに走る。

耳を覆いたくなるような鈴の音が聞こえて、そちらへ急いだ。足を進めれば進める度に大きくなる鈴の音は、己の鼓動のようだ。小路を曲がった先に、道の中央を歩いていた甘寧の後姿を見つけた時、凌統は涙を流しそうになった。
甘寧は一人。得物らしき物は手にしていない。
奴は、調子が狂った鼻歌を小さく歌いながら歩いている。足取りも鼻歌に合わせた呑気なものだったが、徐々に鼻歌は小さくなり、歩く速度も遅くなって、とうとうどちらも消えるように止まった。
気配をこちらに巡らせているのがわかる。

「おい。」

甘寧は振り向かずに低い声で呟いた。
凌統は黙っている。

「・・・。」
「好きにしろ。」

凌統は甘寧が言い終わるのを待たずして、走り出していた。
懐から匕首を抜き、脇を締める。
ゆっくりと甘寧は振り向く。笑っていた。
甘寧の間合いに入る直前に、凌統は腰をぐんと落とした。足払い。足を掬われよろめいた甘寧を押し倒し、馬乗りになった。息付く間もなく、黒い棘のような髪を乱暴に掴み込んで、匕首の冷たい刃を首にひたりと当てた。
ああ、あともう少しで・・・。
手に力を込めると、ぷつりと皮膚が切れて血の珠が出来、みるみるうちに赤い珠は膨らみ、首筋をどろりと伝い流れた。
しかし。
それを見た凌統は、目を見開き手を止めてしまった。

少し前に上官であった陳勤を斬った時のこと。
陳勤の傷から迸る血と、断末魔を見聞きした時、相手と己の後ろに潜んでいた“国”というものの存在を思い知った。
味方を殺した。その罪は重い。ならばいっそ死んで詫びるつもりだったのに、生きてしまったこと。そして、そのまま功を積み罪を購えと“命令”されたこと。
凌統は思いだしてしまったのだ。
今甘寧を斬ったらどうなる?
俺には何が残る?いいや、何も残らない。
殿を裏切り、皆を裏切ることになる。罪を償うこともできないまま、新たな罪がのしかかるだけだ。その罪は、死んでも汚名として残るだろう。
果たしてそれは、父上は、望んでいるか?

(ああ・・・)

それでも、空は黒い―。



凌統の静止は一瞬であったが、甘寧にとっては大きな隙としか映らなかった。
腹上の凌統の腹に重い拳を埋める。腹に手をやって呻く凌統が手から落とした匕首を拾い、身体を起こした。
目線の先に、顔を歪ませた凌統を捕らえる。前のめりになっている奴の肩を思い切り蹴り飛ばし、地に伏せた。
今度は甘寧が凌統に馬乗りになる。
そして、凌統の束髪を掴み上げ、まるで口づけをする時のように、凌統の顔にぴたりと己の顔を近づけた。

「・・・。」
「・・・。」

凌統の瞳には未だ憎悪の炎が宿っているが、莫迦な奴だ。甘寧は鼻で笑った。

「できねぇことはやるんじゃねぇ、なあ!?」
「ぐぁ!」

甘寧が振り上げた匕首は凌統の右掌を貫き、地に縫い止めた。
焼けつくような激痛が身体中に迸り、凌統は背を仰け反らせた。
痛い・・・でも。
できない事?甘寧は討てないって?違うな。できない事じゃない。一矢報いるとか、そんな一瞬で終わるものでもなくて。
そうだ。
こいつに、俺の深くて黒くて、死ぬまで消えないような傷を刻んでやらないといけない・・・っ


甘寧が身を引いた瞬間だった。
凌統は咄嗟に、左手で右手に突き刺さったままの匕首を引き抜き、その反動を生かして、未だ己の上に乗っている甘寧の右肩に突き立てた。
よろめいた甘寧の体が僅かに後ろへ仰け反る。が、甘寧はすぐに持ち直し、匕首の刃が深く突き刺さった肩を見た。そして、匕首の柄をしっかりと握ったままの凌統の手、腕、と目線で辿り、最後に睨み続ける凌統自身を見る。
そして、妖しく笑った。
気味の悪い静けさが二人を永遠に誘(いざな)う。
生ぬるい風の中、互いの息遣いだけが辺りに響いて。
この世に二人っきりの世界。
このまま、時が止まればいいだなんて。
恋焦がれた者たちの逢瀬のような、不思議な感覚だ。




それから、二人の気配を察したらしい見張りの足音が近づいてきて、ようやく凌統はその場を後にした。
次の日になっても、凌統の行動も甘寧の傷も表立つことはなかったが、やはりというべきか、再び甘寧と凌統は任地を引き離された。
しかし、凌統は未だ不思議な気分に襲われている。
甘寧に逢いたいような、逢いたくないような気持ち。
次に逢うとしたらどの戦場だろう。
憎しみはあるが、以前より血が通っているような気がする。

(あいつ、あんな風に笑うのか。)

そういえば、あの時に使った匕首を、甘寧の肩へ突き立てたままにしてしまった。
あの傷、奴が死ぬまで癒えないといい。
そんな事を考えながら、凌統は次に甘寧と顔を合わせたら何を言おうか思案しかけて、大きく舌打ちをした。









仇打ち失敗しても得る物もあり爪を立てるものもあり。
某様にはとてもお世話になりました!