遥拝B(凌一家)



※捏造凌操&凌統の母上&小さい凌統が出てきます。
それでもよろしい方はご覧ください。












それからも蓉は至福の時を過ごしていた。
時折子の凌統が、民に母を見せたいと言ってきては、無理矢理目の前に民を連れて来た時はどうしようか戸惑ったけれども、いつも息子や不自由な自分の身をこうして育んでくれるのも民のお陰。蓉は椅子から降りてその場に正座して民達に日頃の労いと感謝の言葉を述べた。
すると、そんな蓉の態度に感激した民達は、食材に船の木材などをさらに凌家へと運んでくるようになった。
そんな民達は自分を見て、お美しいとか、阿統様に本当にそっくりでいらっしゃると口々に述べるが、蓉はどちらかというと後者のほうが言われて嬉しかった。それは凌統も同じだったようで、民が感心のような声をあげる度に、横に居る小さな息子は座っている蓉の腕に抱きついて、耳元で嬉しそうに笑うのだ。
だから蓉は思う。
本当にこの世は乱れているのだろうか。
自分の周りはこんなに幸福の声に溢れているのに、何がどのように乱れているのか蓉はいまいち検討がつかないでいたのだが、その答えが出る時が来た。

その日も、蓉は邸の回廊に設(しつら)えた椅子に座り、あたりの空気や音、匂いを聞いていた。
時折聞いたことのない鳥の囀りもあれば、時とともに薫る匂いも変わる。蓉はそんな変化を楽しんでいるのだ。
ふと、そんな中にこちらへ近づいてくる足音が聞こえ始めた。
この足音と気配は夫の凌操のものだとは推測はできるけれど、何時になく速足だ。
それは、凌操と出会う直前の、蓉が生まれ育った邸が襲われた時の音を彷彿とさせた。もしや近づいてくる足音は、凌操様ではないのかもしれないのではないか。そしてこの邸も賊に襲われ、凌操様も亡くなり・・・ああ、統は、どうしよう。あの子はどこにいるのかしら、あの子だけでも守らないと。蓉は見えない眼(まなこ)を巡らし必死に息子を探そうとした。だが、小さな気配は全く見つけることができない。焦りだけが募る。
蓉はその時やっと、自分の邸が襲われた時の母の気持ちを理解した。さらに、まさにあの事件も乱世の末端なのではと思い当って、今まで気づかなかった自分の愚かさを嘆いた。

「何を泣いているのだ?蓉」

近づいてきた足音が止まった瞬間に聞こえた声は確かに凌操の声だった。
その声色には緊迫した色ではなく、戸惑いと驚愕に溢れていた。
蓉は涙声を隠さず伝える。

「・・・凌操様の足音が・・・。私の邸が襲われた時に似ていましたので、つい思い出してしまいました。そして統はどこに行っただろうと思った時、母がどうしてあのように言い、私を狭い場所に押し込めたのか・・・いいえ、隠したのか、今になって分かっただけなのです。」

蓉の声が消え入り、再び啜り泣きに変わった。凌操は妻の記憶を掘り起こした事に申し訳なく思い溜息混じりにそうかと告げるしかできなかった。そして、できるだけ優しく、蓉の隣に座り、細い肩を抱き寄せた。

「大丈夫だ。邸は襲われてはおらん。阿統は外で家人と船に乗って釣りに行っているよ。だが・・・多分俺が今から告げる事は、蓉にとって悪い知らせかもしれん。」
「・・・どういうことでしょう。それは私達や民達の弊害となるのでしょうか。」

凌操は黙ってじっと目の前に広がる風景を見つめた。
回廊の真ん中には池を作らせ、蓮の花を植えた。また、蓉が匂いが好きだと言ったので回廊の端に桃の木も植えた。その向こうには邸の入口があり、さらにそのまた向こうには緑あふれる揚州の風景が見える。
蓉は目が不自由だが、聡明な女性であることはよく知っている。だから、今己が“黙りこんでいる状況”が、彼女にとって悪い空白の時ということも、十分に理解していた。
凌操はどこから話せばいいか考えた。
が、以前蓉をここへ連れて来た時、“納得いくまで俺が答えてやろう”と言ったのは己ではないか。ならば、全て告げるしかない。
一つ深呼吸してから、凌操は口を割った。

「蓉。この国は漢という名を持っていることは知っているな。」
「はい。以前凌操様がおっしゃっていましたから。」
「その漢を取り仕切っている者たちが横暴にはしりだした。俺達が住まう揚州は漢の都から大分遠いが、だからこそ、中央の目が行き届かなくなって、賊が頻出し、お前の家が襲われた。」
「・・・。」
「俺は民たちから年貢を徴集し、徴兵も行っているが・・・都からくる便りは日に日にその量が増してきている。だから、今乱世と言われているのは、横暴な者を追い払い、漢を新しくしようとしている者、漢ごと飲み込み自らの国を作り上げようとしている者、色々な人物が蔓延っているからだ。」
「凌操様も、そのお一人になられるのですか・・・?」
「いいや。俺にはそんな器量はない。・・・この揚州一帯をまとめようと旗揚げした孫策という男がいるのだが、その男に士官しようと思う。」
「・・・戦に行かれるのですか?」
「・・・・・・そうなるだろう。」
「統も、でしょうか。」
「だからこそなのだ。武具は既に手に入れている。統にも稽古をさせている。そんな息子とともに士官すれば、孫策殿はきっと快く受け入れてくれよう。しかし俺の力量がどれくらいかは、孫策殿が図る事だがな。」
「きっと凌操様なら、その・・・孫策様もお気に召されるでしょう。」

そう呟いた蓉の声はより一層か細くなり、凌操はすまないと心から呟いてきつく蓉を抱きしめた。
国が、家族が見えない何かに絡め取られる。この女の邸や家族のように、全てを引きちぎられてなるものかと、凌操は天を睨んだ。





父に稽古をつけてもらうようになり、さらには民から募った兵たちとともに修練を積みはじめた凌統は、邸の自室で過ごす時が少なくなってきた。
昔は皆から可愛い可愛いと言われていたが、誰よりも尊敬し憧れている父から、“お前はこれから武官となるよう鍛錬を積むのだ”と肩を強く叩かれた。それが期待されていると知ったのなら、勿論それに応えなくてはいけない。
お陰で背も伸びてきたし筋肉もついて来た。
父は最近邸に居ない時が多くなった。
それもそのはず、士官している孫策の元で、おおいに戦働きをしていて、時折帰ってきてはその恩賞をたんまりと貰って笑顔で帰ってくるのだ。その度に、父を誇らしく思いながら笑顔で出迎えた。
だから凌統は、父と共に戦場を共にするため、さらには父に負けじと昼間は修練を積み、邸に帰ったら飯を食い、少し水を浴びてからさらに眠るまで中庭で自ら武に励む。時々長雨が続く時は、兵法にも目を通した。
しかし、修練に向かう時が一番心が重たくなる時でもあった。
回廊に設置してある椅子に、いつも母が座っているのだ。

「・・・。」

一応凌統は母の前で止まり拱手するが、話すことはほぼなくなった。

拱手をしたらそのまま母の前を通りすぎるのだが、時々母が後ろから“励んでいるようですね”と言うのが、呼び止められているようで少し癪だった。
凌統は気付いてしまったのだ。
目の見えない母。
しかも自分そっくりな顔。黒子の位置まで同じで髪の色まで同じ。
それなのに、あの場に座って微笑んでいるだけしかしていない。民は時折母に会いに来てくれて話をしているようだが、こんな乱世にあの人が出来る事など多寡が知れている、孫策様に付き従っている父上とまるで正反対じゃないか。
自分そっくりな、亡霊のようだ。
どうして俺は父上に似なかったんだろうと考えるが、考えるだけで凌統は口には出さなかった。
その代わり、父は帰ってくる度に何度も母に声をかけ、何か美味い物が手に入ったら口に運んでやり、見頃の花を手折ってきては母の髪にさしている場面を凌統は何度も見かけた。
だから父に母の事を言おうかと少し思ったが、酷く怒られそうだと思ったし、かといって自らの内の鬱憤を晴らす事もできず、戦場にいる父から母と自分宛ての書簡がやってきても、母へは家人伝いに手渡し、凌統は苛立ちをそのまま父への尊敬に摩り替え、時を過ごした。

ある日、親子3人で夕餉を囲んでいた時だった。

「統、お前もそろそろ成人だな。」
「まあ、もうそんな時期ですか。早いものですね。」
「うむ。それでお前の初陣を孫策様に決めてもらったぞ。」
「えっ本当ですか!?父上!」
「ああ。夏口だ、それから一緒に字も考えなくてはなあ、蓉。」
「ええ、どんな字がいいでしょう。」

字といっても、母上は字が見えないでしょうと思ったが、凌統が目の前の食事をぱくぱくと食べながら目の前の両親のやりとりを見ていた。

(でも、字“あざな”か・・・。)
(二人がつけてくれるのかな・・・。)

でも、どちらかと言えば父上につけてもらいたい。そう思ったのだが、やはり凌統はそれも口には出さずに目の前の食事を平らげて、お二人に任せますよとだけ伝え、武に励もうと逃げるように部屋を後にした。








蓉は自らの命は長くはないだろうとは思っていた。
昔から、日常より多めに身体を動かしたら次の日は寝込んだり、凌統を産んだ瞬間から数日は昏睡していたというのだから。また、最近は時折胸が熱く燃えるように痛む。その度に咳き込むが、しばらくすれば止んだ。
だから然程気には止めず、回廊の椅子に座ることを止めなかった。
また、凌統が声をかけてこない事も彼女は理解していた。
気配は察するけれど声は一言も発さない。寂しくはあったが、凌統から発する気配は本当に凌操によく似てきていて、喜ばしくもあった。
だから、いつ凌統が声をかけてくれるかと待っている節もある。

長雨が続く日、今日も蓉は家人に付き添われて回廊の椅子に出る。

「奥様・・・大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。いつもありがとうございます。」

しかし彼女は知らない。
自らの体が急激にやせ細り、目が不自由でなくとも人の手を借りないと歩けなくなってしまったということを。
だからいつものように笑顔を作って家人に礼を言ったのだけれど、長雨の中だとやはり少し冷える。胸が熱い。こんこんと咳をしたら感じたことのない胸の熱さが増幅し、再び咳をしたら、何かがこみ上げて来たので思わず手で受け止めた。
刹那、掌が胸の熱さと同じ熱さのものに濡れた。
口の中に広がるその味はすぐに血の味だとわかったが、蓉はすぐに手を少し前に出して雨で拭った。

「せめて、統に兄弟を作ってあげればよかったですね・・・。」

病か・・・。
しかしこんな病など、戦に行った凌操様や息子のことを思えばどうということはない。
人の命を奪う仕事など誰もやりたくないだろうに。そう思う自分は、乱世には生きていてはいけないのか。だから病を患ったのか。
しかし、それでも・・・。

「統・・・。」

声が、聞きたい。
どちらでもいい。愛する二人の声を。血肉を分けた声を。
そこへ、近づいてくる気配がした。それは希(こいねが)った愛する気配。ああ、やっと帰ってきてくれた。しかし、どうしてこちらに近づいてくる気配はとても悲しそうなのだろう。そしてどうして気配は一つなのにどうして一つに感じないのだろう。
ああ、どうして?どうかそんなに悲しまないで。

「母上・・・」
「・・・統、ですか?」
「母上・・・っ」
「どうしたのです、もっとこちらに来なさい。雨に濡れてしまいますよ。」

涙声の息子が目の前にやってきた気配。
それよりもやっと聞けた息子の声が嬉しくて、蓉は目の前の息子に向かって両腕を伸ばした。丁度、掌が凌統の耳の辺りに触れたから、息子が膝を付いている事がわかり手さぐりで息子の顔を抱きしめた。
息子は震えながら泣いている。

「・・・どうして泣いているのですか?」
「っ・・・父上がっ・・・父上が戦でっ・・・」

それ以上は聞かなくても分かった。

「・・・凌操様は・・・そこにいるのですか・・・?」

両の腕に抱いた息子の顔が大きく縦に揺れた。それが、是か非か、蓉はよくわからなかったのだけれど、傍にいるのだと悟った。・・・例え、それが亡骸でも。

凌統は父の亡骸を背負って邸に帰って来たはいいが、久しぶりに見た母の姿に絶句した。そして、父を失った悲しみの涙に、さらに別な涙が頬を伝う。
長雨が降りしきる中庭で、折れそうな程にやせ細った身体を椅子に預けるようにして座っている母。さらには口も手も血に塗れていて・・・父を失ったばかりの凌統には耐えがたい光景であった。
どうして。
貴方まで逝かないでください。
どうして最後まで二人一緒に逝ってしまうんですか。
俺は、何も二人にしていないというのに。
これからっていう時に、どうして・・・!

「・・・父上は、・・・御役目を果たしたのですね・・・。」
「母上、もう喋らないでください、もう寝所で休まれたほうが・・・」
「いいえ、私は・・・貴方とお話できて嬉しいのですよ・・・それに・・・」

蓉は己の手が震えだしたことに気付いた。だが、彼女は嬉しさに震えだしたに違いないと信じて疑わない。己の身に突如として迫ってきたものも、息子の声が聞けた喜びに打ち消されていた。
しかし、これだけは息子に託さねばならない。覚束ない手つきで懐から一枚の白い布を取りだして、凌統の手を手繰り寄せて、温かく大きくなった手に持たせた。

「万が一の場合と・・・父上様より、貴方の字を・・・お預かりしていました。私と一緒に決めたのです・・・」

その時、ふいに蓉は、小さい頃から両親に聞かされていた言葉を思い出して、泣きじゃくる息子に告げた。

「母は、貴方の声で、貴方自身の名と字が聞きたいのです・・・母の頼みをどうか聞いてくれませんか・・・?」

凌統は泣きながら母の細い手から渡された布を広げ、片方の手で母の手を握りしめながら、そこに書いてあった字を読んだ。

「凌・・・凌統っ・・・字は・・・公績ですっ」
「・・・・・・公績・・・いい名ですね・・・」

それから、蓉はにこやかに笑った。
雨の匂い。濡れた草木の匂い。凌操に似た息子の匂い。
そして血肉を分けた息子と、全て教えてくれた凌操様。沢山のものに囲まれて、これ以上の至福などあるものか。凌統の声が聞こえる。血に濡れた私の唇を拭ってくれている。ああ、私は今、とても嬉しい・・・。

その瞼の裏には、もう何も映ることはなかった。






時折、凌統はそっと懐から一枚の布を取り出して眺める。
それを開いて、父が書いたであろう自分の字を何度も見、母の声を思い出す。

(公績・・・)

一体どのように思って名付けてくれたのだろう。二人のやりとりを色々と想像しながら、凌統は懐に再び戻し、小さく頭を垂れてから再び歩き出した。

「甘寧・・・貴様だけは・・・絶対に許さん!」








これは創作三國の領域だなぁ・・・
でも、浮かんでしまったからしょうがない。
甘寧の出る幕がなかった。ていうか、甘寧これ読めないな。
感想を頂けましたら幸いです。