夜―The night―C











暗い・・・

暗い・・・

暗い・・・。



凌統はずっと外を見ている。
昼も夜も眠ることも忘れて、自室の窓辺に椅子を置き、壁に凭れてどろりとした眼(まなこ)で外を見ている。
今、空は灰色で静かに雨が降っているが、その目に映るのは灰色の墨で真っ黒に塗り潰された世界だ。
草の色も花の色も朱色の外壁も部屋の色も、全てが鮮やかに、黒い。

「・・・。」

あの夜が明けて目が覚めても、最早何も考えられなかった。
あれから何日経ったのかもわからない。
四肢はおろか指一本すら動かせず、衣も足元まである長いものを一本の帯で締めているのみ。自ら命を絶つ気力もない。
一日に3度、邸の者が食事を運んでくるが、目にも入らない。

(・・・。)

部屋に女官が入ってきた。
その女官は、食事を運んでくれている女官であり、凌統が生まれた時からずうっと邸に仕えている年老いた女性で、柳の木のようにいつも穏やかに笑っている。
女官が今手に抱えているのは、食事ではなくやや大きな箱だ。その箱を近くの卓に置いてそっと蓋を開け、中から朱色の櫛と香油入れを取り出し、それを持って凌統の後ろまで歩み寄ると、黙って一礼して、静かに凌統の短くなった髪を梳き始めた。
ずうっと小さい頃から、凌統はこの女官に髪を梳いてもらっている。それは、凌統の髪が短くなっても変わらず、女官の態度も変わらないから、凌統は唯一、この女官に対しては本当に申し訳ないと思った。

(公績様の髪は、亡くなった奥様に似てとても綺麗ですね。結い甲斐があります。)

そんな風に嬉しそうに言っていたのは、一体いつだったっけ・・・。
櫛の通りが良くなり、髪の長さに比例して梳く時間も短くなった。その代わり、女官は凌統の髪に薄く香油を塗って、そして側頭部の髪だけを取って、束髪があった後頭部で小さく結いあげていく。その表情はやはり穏やかだった。
凌統はそれでも、感謝や謝罪の言葉が脳裏に浮かんでも口は動かないまま。

「公績様、お食事とお水はまだ置いておきますからね。」
「・・・。」

女官は静かに出て行った。



気が付けば、再び夜になっていた。
卓にあった食事はいつの間にかなくなっていて、水差しだけがそこに置いてある。
凌統はあの夜のことを誰にも話していない。
一度、呂蒙が邸を訪ねて来て何か話していったが溜息をついて出て行った。
その後、孫権自らやってきて手を取られた時は、どうしてか涙が流れた。

どうして生きているんだろう。
仇に全てを奪われて国のために働くこともできず、ただ木偶となった自分の鼓動はどうして止まらないのだろう。
どうして命は平等なんだ・・・。
考えても考えても、自分の愚かさと汚なさをより鮮明に感じるばかりだ。誰も悪くない。そんなことは分かっている。こんな俺に対して、綺麗だとか何とか言うのは本当に馬鹿だ。
あの時の甘寧の言葉が脳裏を過る。

(反吐が出るぜ。)
甘寧は仇だ。
奴に犯された感触は、内臓を引きずり出したい程に身体にこびりついていて、思いだすだけでも吐き気がこみ上げる。
だから奴を憎むのは、未だ変わりはない。だが、憎しみは甘寧より自分自身に向かっている。そう、反吐が出る程に。

(あいつは、俺を、反吐が出る、って。)

どんな綺麗事よりも、それは酷く落ち着く響きだった。
憎む相手から告げられた蔑みの言葉。
一度瞼を深く閉じて、その響きを噛みしめる。今、自分に一番似合っている言葉、甘い言葉だ・・・。
部屋の空気が動いた。

「凌統様。」

入口のほうに僅かに瞳をずらすと、己の副将が立っていた。
何をしに来たのだろう。自分の行いを咎めに来たのだろうか。愛想が尽きたか。それもいい、いっそ、俺を罵ってここを離れてもっといい将のところへ行くといい。それくらい優秀な副将だ。
しかし副将が口にしたのは、意外な言葉であった。

「凌統様、大丈夫ですか?皆が心配しています。その・・・凌統様の行いは・・・目に余る物がありますが、それでも凌統様お一人の戦働き一つで覆すことができると思います。貴方はそれ程素晴らしい武をお持ちだ。そして我々はそのことを知っているし、全力で汚名を雪ぐ手伝いをします。ですから、どうか・・・我々に姿を見せてください。」

こんな、筋肉が落ちた惨めな姿を見せろって?
素晴らしい武?
汚名?消えないくらいに汚れてるのに?
凌統はゆらりと椅子から腰を上げ、下から掬いあげるように副将を見つめた。

「・・・なぁ。」

副将は、凌統が兵卒たちにしていた慰めを知っている。
いつの間にか兵卒たちが上官である凌統を見つめる目がおかしくなり、問いただしたら、そのような馬鹿げた行動を明かしたのだ。しかも一人ではなく、何人もいるではないか。馬鹿げている。どうしてこうなったのかと考えるけれど、ゆらゆらと鬼火のように揺れながら近づいている上官は今まさに誘惑の色をこちらに向けていて、理由を口にしてはくれない。
副将は、息を飲んでただ黙って見ているしかできなかった。
そんな人ではなかったはずなのに。一体どうして。何がこの人をこうさせるのだ。
唇が重なる程に近づいた上官の顔は、笑っているようで無表情だ。

「綺麗なあんたが、俺を罵ればいい。」
「・・・・・できませんっ・・・!」

声を振り絞った。
ややあって、凌統はふと笑って、ふらふらと素足のまま部屋を出て行った。


闇夜を彷徨う。
悪夢のような現実で聞いたあの言葉を求めてふらふらと漂うように。
目の前は夜の闇より真っ暗だ。





Dへつづく






のろのろ更新です。