夜―The night―D





凌統は、夜に静まりかえった建業をあてもなくふらふらと彷徨っている。
懐に持っているのは護身の小物と、壊れ気味の心と、それから、悪意。そんなところだ。
瞳は前を向いているが、何も捉えてはいない。
素足の身体はじんじんと冷えきって痛い。
夜の石畳は歩みを拒絶しているようだ。

(あんな言葉・・・かけるつもりじゃなかったけど・・・)

先程自分の身を案じて邸に来てくれた副将の顔と、己の言葉を思い出して雲に覆われた空を見た。


凌統は以前、山賊討伐の際に上官である陳勤を斬っている。
宴の席での陳勤の言動があまりにも程度が酷く、真っ向から咎めたらその場で罵られ、宴が終わった後も散々喚き散らされて頭に血が昇った結果だった。
結局陳勤はその後傷が元で死に、凌統は死んで詫びようと自ら最前線に出たはいいが、死ねなかった。
それは、凌統自身の決死の武だけではない、凌統に続いた兵たちも働いた結果だ。それが多分、副将の頭にあってあのように言ったのだろう。凌統自身の我儘のようなものに、信じてついてくる者たちがいる。

(なのに、俺は・・・。)

あんな風に兵達に手を出して、自分も汚れた。
上官が部下を疑い始めたらその軍は終わりだ。しかし今更後悔しても何も戻ってこない。それなのに、副将も呂蒙さんも、あの時許してくれた孫権様も、どうして俺を裁こうとしないんだ。
期待?
もう・・・応えられるかどうか、わからないのに。

だから慰めとか、労わりの言葉はいらない。
今欲しいのは、まさにあの時陳勤が喚き散らしていた罵倒の言葉だ。どこに行けば聞けるんだ。
甘寧に逢えば、聞けるだろうか。
そうだ、あいつなら・・・。

(どこ・・・)

凌統は、甘寧を求めて歩きだした。
奴に会ったら何と言おうか。欲しい言葉をくれたら、そのまま奴の首を掻っ斬って殺そう。相討ちもいいかもしれない。そうだ、言葉をくれたらいっそ俺の息の音も止めてくれても構わない。
しかし、凌統は甘寧の居場所を知らない。
どこで何をしているのか、甘寧の邸がどこにあるかも知らない。だから、この広大な建業の京を延々と一人で甘寧を探して彷徨うことになるのだが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、言葉が欲しいだけ。
ただ、逢いたいだけ。
それだけが、凌統の歩みを進める。

(?)

冷たい奇跡のような音色が聞こえた。
鈴の音。
微かに、しかし確実に。
目を見開いて歩みを止める。
確かに、鈴の音が聞こえる。聞こえるのだ。
凌統は無表情のまま鈴の音が聞こえるほうへ、歩き始めた。歩みを進める度に胸が高鳴る。やっと逢えると身体全体が歓喜に叫ぶのを感じながら、凌統はどろどろと歩く。






甘寧は暗い夜空を睨むようにして歩きながら、盛大に大あくびをした。
任地から建業へ来て二月、連日登城し孫権の話を聞いたり軍議に出、久しぶりの京で楽しまないわけがないと軍議が終わったら子分達や呂蒙を誘って、邸や飯店で大宴会。
流石に毎日酒宴が続くと疲れが上手く取れない。
が、それも今日で終わりだ。あと3日もすれば再び任地へ向かわなければいけない。

凌統が登城しなくなって、一月が経とうとしている。
呂蒙や他の将から何か聞いてはいないかと聞かれたが、甘寧は首を横に振った。しかし、凌統のことで何か聞かれるたび、懐に忍ばせてある凌統の髪が存在を主張する。
それなのに、髪は何も語らない。
今も懐に手を入れ、その髪の筋を指で撫でながら凌統のことを思い出そうとするけれど、思い出そうにも邂逅はほんの僅かな時間だったし、その中で唯一愉悦を感じるのは奴の唇の感触ぐらいだ。

「もういっぺんぐらい、あいつと話をしてみてぇが・・・」

きっと、それは叶わないだろう。そう確信しているわけではないが、そんな風に感じる。凌統は自分がいるうちは外に出ないつもりだ。
けれどそれは凌統自身の話。甘寧の知った事ではないが、こちらから出向く程でもない。同じ国に仕える武官同士、同僚なのだ。遭遇する機会はこれからいくらでもある。互いに死なない限り・・・。
今はさっさと邸に帰って、眠るのが一番だ。
甘寧は大きく伸びをしてだらだらと足を運ぶ。

「!!」

しまった。
後ろからひたひたとつけてくる足音があると気付いた時、甘寧は物凄い速さで脇から飛び出してきた影に首を掴まれた。
気配を感じないとは。
相当の手足れか。
しかし殺られる気は毛頭ない。どこの野郎だ?
影が飛び出してきた勢いのまま、甘寧は石畳の上にどうと倒れ、その間に腰に佩いていた双鉤の柄を握る。そして、影が甘寧に馬乗りになって首に両手をかけたのと、甘寧が影の首に双鉤の刃をひたりと当てたのはほぼ同時だった。

「お前・・・凌統じゃねぇか。」

月の光もない暗闇の中で、刃の鈍い光は凌統の顔を照らしていた。
前よりも身体が細くなったような気がする。衣のあわせから見える胸板も、少し薄くなったような。だが、無駄なものが削げ落ちて精神が妙に研ぎ澄まされているようにも感じた。

甘寧が凌統の名前を言うと、首を絞める手が震え、さらに力が籠もった。
甘寧の頬にぽたりと水のようなものが落ちる。
雨ではない。

「また泣いてんのかよ、お前。」
「・・・甘、寧っ・・・」
「ったく、何してやがるかと思えば。でも丁度よかった。俺もお前に逢いたいと思ってた所だったぜ。」
「・・・っ・・・」
「てめぇは何の用だ。俺を殺しに来たのか?」
「俺を・・・汚ないって言え!」
「・・・あぁ?なんだそりゃ。」
「煩ぇ!俺を汚ないって言えっつの!この間みたいに、反吐が出るって、罵れよ!」

甘寧は眉を顰めた。双鉤を構える手は解かない。
意味がまるでわからないが、あの時犯した事を言っているのだろうか。仇と姦したことを思い詰めて?
けれどそれならば、自分の罪を後悔し、背負って逃げずにいる凌統は汚れていないと甘寧は思う。自分の罪を全て他人に擦りつけて逃げる人間や、他人を騙す人間のほうがよっぽど汚ない人間で、甘寧はそういう人間を沢山見て来ている。

「・・・お前は、お前が思ってる程、汚れてねぇと思うけどな。」

凌統は目を見開いた。
そして、小さく顔を横に振る。

「・・・違う。」
「あ?」
「違う、俺は、そんな言葉は欲しくない・・・。」
「おい、お前。」

暗闇の中、凌統は甘寧を拒絶するように首から手を離した。
違う、そんな慰めは要らないって言ってるじゃないか。俺は、あんたの声で罵倒の言葉が聞きたいのに。
ああ、そうだった、甘寧は、いつも理想と正反対の言動をする奴で・・・仇だった。
凌統の表情は、愕然としていたものからみるみる憎悪に染まっていった。

「っどうして・・・っ!」

凌統は甘寧の胸倉を掴み、思い切り殴った。
ばきりと、建業の夜に物騒な音が鳴り響く。
そのあとも、拳は止まらなかった。

「あんたは、あんたは・・・っ!どうしてそうやっていつも・・・!」
「・・・っ」
「全部奪いやがって・・・殺してやる!」
「・・・ってぇな・・・!」

馬乗りになって何度も凌統に殴り付けられていた甘寧は、流石にやられっぱなしではいられない。凌統の振り下ろした拳を肩手で受け止め、不敵に笑うとお返しだと言わんばかりに思い切り凌統の顔を殴った。
凌統がよろめいた隙に身体を起こし、今度は甘寧が凌統に馬乗りになって凌統の胸倉を掴みあげた。

「大人しく聞いてりゃあ・・・。俺のせいだぁ?全部奪うような隙を作ったのはお前だろうが。世間知らずの野郎に言われたくねぇなぁ。」

凌統の瞳が揺らいだ。
そこへ、騒ぎを聞きつけた近くの民と、凌統の副将と甘寧の子分達数人がやってきて二人の間を裂くように割って入り、二人を別々の方向に連れてゆく。
凌統は遠ざかる甘寧を指差しながら、叫んだ。

「あいつは、甘寧は何も知らないんだ!俺のことなんて!」
「知るわけねえだろ!いいか、俺はお前を殺さねぇぜ!死に場所は自分で探すこった!」

そんな風に叫ぶ甘寧は不敵に笑っている。子分達に引きずられるようにして歩いている今もなお、凌統の姿が消えて行った道の角を嬉しそうにじっと睨んでいた。

逢いたいと思っていた凌統と逢えたのだ。
気分は高揚するばかり。やや痛みのような切なさもある。
この感情は、一体なんだ?





Eへつづく






まだまだ続きます。