夜―The night―E





凌統は相変わらず邸に籠り、城に出向いてはいない。
僅かに飯は口にいれるようになっていたが、それでも身体を動かす気にはならず、練兵所に顔も出していない。

自室から、ぼんやりと夜の外を見る。
ふいに軽くなって久しい後頭部に手をやれば、小さな束髪が触れて、そのままゆっくり首に手を滑らせた。
首には一筋の傷ができていた。
甘寧を殴った時に、奴の双鉤が首にかかって切れてできた傷だ。

「あいつ、あのまま俺を殺せばよかったのに。」

そうすれば、奴も罪人だ。
なのに甘寧は、嬉しそうにお前を殺さないといった。死に場所は探せ、とも。
私闘は禁じられているから公には殺さないというより殺せない、のほうが正しい。それは凌統も同じである。
でも、甘寧は甘寧自身が殺したいと思えば、例え同じ国の者でも殺してしまうような気がする。
それは自分と違う所だが、武を振るってどこかの誰かの人の命を摘み取るのは、甘寧も自分も同じ。

分かっている。
・・・分かっているのに。

入口の所に気配が立った。

「公績様。」
「・・・。」
「孫権様の使者の方がお越しです。」
「・・・入ってもらっていいよ。」

すぐにやってきた使者は、恭しく頭を垂れて拱手した。見た事のない人間だ。

「凌将軍。孫権様がお呼びです。このまま私と共に登城せよとのこと。」

私闘はするなと言われたあとの喧嘩をしたのだ、孫権の耳に入って当たり前だ。
とうとう罰が下るのかな、と、既視感を覚えながら、無表情のまま凌統は腰を上げた。



使いの者の後ろをついて歩きながら、ぼんやりと凌統は歩く。
久しぶりに胴着に袖を通したが、腹のあたりが緩くなっているのが情けなかった。
道端の桃の木は花を宿しているが、暗闇の中では何色をしているのかよくわからない。
ただ、いつの間にか外は暖かな季節になっていて、過ぎ去る風は生肌のような温さをもっていた。

夜風が足の間をすり抜けていった。
あの夜に下半身に直に感じた空気と、太股を伝う冷たさを思い出した。
つい強烈な吐き気がこみ上げ、思わず口に手をやる。

「・・・。」

風が、今度は首の傷を撫でて行った。

(首、刎ねられるかな・・・。)

首の傷に手をやった。
軍紀を乱した自分の行動が裁かれ、今後の孫呉のためになるのならそれはそれでいい。
しかし、孫呉の武官の凌統にとって、戦場が最善の死に場所だ。
武官は味方のために死ぬのが役目。甘寧は、死に場所は自分で探せと言っていたが、そんなものもう既に答えは出ている。
自分の体は汚れ、力は弱くなったが、それでも未だ動けるのだ。心残りといえばそれくらいだ。

「・・・父上は、どう思いますか?」
(こんな息子で・・・ごめんなさい。)

黒い空に向かい小さく呟くと、前を行く使者が僅かに足を止めた。
そして再び歩き出す。
父は、あの男に殺されて本望だったのだろうか。父は戦場であっという間に死んでしまったが、いつも前線で戦っていた父のこと、病を得て床で朽ちるよりはあの人らしいけれど。
今自分が死んだら、何も弁明できなくなる。己の働きが無になるどころか、家名に泥を塗ることになるが、惨めな言い訳をするよりは戦って、戦場で死にたい。
・・・今更後悔したところで、どうにもならないか。
凌統は、暗い夜空を仰いで小さくため息をついた。




「甘寧は、呂蒙とともに合肥へ向かわせた。」

孫権が深く椅子に座って一息つくと、凌統は拱手し直して頭を垂れた。
そんな凌統の姿を、孫権はまじまじと見つめる。
目の前にいる凌統は、厳しい表情をしながら黙って石の床を見ていて、微動だにしない。凌統の邸に足を運んだ時よりは少し髪が伸びたが、すっかり痩せてしまった身体が痛々しい。

(いつか、陳勤を斬った時と同じ光景だな。)

確かあの時は、凌統はもっと切羽詰まった顔をしていた。今は何か諦めた顔をしている。
凌操が亡くなった直後から今まで、受け継いだ父の軍を引っ張ってきたその武は確かなものなのに、どうしてこんな風になってしまったのか。
次に己が告げる言葉は、凌統にとって酷だろうか。それとも観喜だろうか。
蒼い瞳は僅かに曇ったが、すぐに穏やかな笑いを作った。

「凌統、お前も明日兵を引き連れ、私とともに合肥へ進軍してほしい。」

凌統が目を丸くしてゆっくりと顔をあげた。
何と言った、という顔をしている。

「・・・どうしてです?」
「お前の力が必要だ。」
「でも!俺は・・・」

孫権はがく然としている凌統の心を解きほぐすように、穏やかに見つめ、語りかける。

「凌統、私の耳に入ってきたのは、数日前にお前と甘寧が路上で殴りあいをした、という事だけだ。甘寧は双鉤を抜いたようだが、お前は刃を向けていない。武官達が調査をしても、お前の兵たちは何もないというし、甘寧も、ただ酒を飲んで殴り合いになっただけだと言った。もし公に露呈しない罪をお前が自覚しているのならば、言ってほしいのだが。」

凌統は目を泳がせ、唇を噛んだ。

「言いたくないのならば言わなくてもいい。だが、私はそれで、十分お前は武官として働くに値すると取るが、よいな。」
「・・・俺は・・・1度ならず2度までも、皆に迷惑をかけちまいました。死んで当然なんです。」
「凌統、死は逃げ道ではないぞ。それに死のみが贖(あがな)いでもない。」
「ですが、俺はもう・・・あいつへの恨みは消せません・・・あいつは、全部奪って・・・!」

ふう、と孫権は小さくため息をついた。
成程。甘寧関係で何か悩んでいるようだ。それは父・孫堅を討たれた孫権自身、同情することもできる。だが今、凌統に謝る頭は持ち合わせてはいない。

「では、言い方を変えよう。私は今のお前の心を無視する。それがお前に対する罰だ。」
「・・・え・・・?」
「お前の武を失うのは、今の孫呉にとって痛手にしかならない。私はお前の感情より、その武を信頼する。それはお前だけではなく甘寧も同じだ。」
「・・・。」
「私は君主だ。国の行く末を導かねばならん。そのためにお前の感情は無視する。」
「・・・。」
「命令だ、凌統。」

孫権の表情が厳しくなった。
が、次の瞬間には笑っていて、脇にいた者に耳打ちをした。

「それから・・・お前に用意したものがあるのだ。受け取ってくれるか?」
「・・・?」

にっこりと笑う孫権の瞳を、凌統は首を傾げて見つめかえした。




孫権に渡されたのは、新たな武器であった。
三節棍。
見事な意匠が施されたそれは、驚く程に手に馴染み、すぐに構えてみたいとは思ったのだけれど、その重みは実際感じる重さよりもずっと重く感じる。

邸に帰り、次の日の朝になって凌統は、とぼとぼと見慣れた練兵所までの道を進んだ。
足取りも、気も重い。

(今更・・・あいつらにどの面下げて逢えばいいんだっつの・・・!)

仕える君主に共に進軍してほしいと声を掛けられたのは光栄だし、納得せざるを得ないけれど、どうしようか。

石畳の床を右へ折れると視界が開けた。
練兵所には、隊列を組んだ見慣れた兵たちがそこにいた。





Fへつづく






愛され凌統。