夜―The night―L






濡須口の戦から撤退した呉軍は、休む間もなく樊城攻略に動いた。
今まで敵であった魏と同盟を結び、関羽という壁を崩すためである。関羽の後ろには劉備がいる。劉備のまた先には、天下がある。

国の動向を決めるのは、主君の孫権はじめ、都督や軍師たちだ。凌統等武官は、主君が示した道を鋭利な槍の如く切り開くのが役目。そのためにはまず、己の軍を鍛えなくてはいけない。

凌統は孫権より新しい軍を貰った。以前よりも倍以上の数だ。しかも自分と同郷、またはその近く出身の者が多く、凌統の邸に仕えている女官の親類もいた。
大切にせねば。
そのように集められた兵たちは、腕に覚えがある者が多く、精鋭部隊といってもよかった。しかしだからといって、実戦ですぐに役に立つかというとそうではない。
戦は個々で行うものではなく、軍隊という団体で行うものだということを凌統は痛い程知っている。
将は兵に周りと息を合わせることを説き、士気を高め、それでもって練兵し、戦う。そうすれば、死ぬ危険だって減るし、敵を倒すこともできる。基本中の基本だ。

まだ編成されたばかりの軍は、まだ気持ちがばらついている。
凌統は、樊城近くに張った陣営に着陣してからも何度も兵達に刀槍を佩かせ、近くの山々を走らせたり、実際に得物を打ち合わせたりして、練兵に勤しんでいた。

(しかし、晴れない空だねぇ。)

練兵の合間、凌統はふと空を見上げた。
合肥からずっと、晴れた空を見ていない気がする。いや、むしろ、父を失った日からずっと・・・。
いつからすっきりとした青空を見ていないだろうか。わからない。
しかし、青空の下の色づいた景色を見るためには、早くこの戦を終わらせて孫呉に帰ることが一番だ。
はあ、と小さくため息をついた拍子に、後頭部の束髪が揺れた。
もう、髪は切る前と同じくらいに伸びている。
心の闇は消えてはいない。
静かに沈殿しているだけだけれど・・・全て消える日は来るの、かな。

そこへ呂蒙がやってきた。今回の樊城攻略の指揮を執っているのは彼だが、以前の濡須口の時にも彼が戦を指揮している。

「頑張っているな。」
「ああ。この間は世話かけちまいましたね。」
「構わん。・・・甘寧とも、話をしているようではないか。」
「・・・・・・はは。」

凌統は苦笑いを浮かべ、濡須口を思い出した。

「あれは単純に俺の読み間違いですよ。甘寧がこなかったら・・・ちょっとまずかったかもしれないし。」

濡須口の戦直後の偵察は、完全に己の不手際であった。
既に魏軍は撤退した後。何かあってもすぐに討てる自信はあったが、伏していた敵兵の数が予想以上に多かった。別に、以前のように死に場所を求めて行ったのではなかったのに。
甘寧は何か勘違いをして殴ってきた。
自分への過信はあったし、言い訳はすまいと思って拳を受け止めたが、凌統は、甘寧に借りを作ったことが、一番の失態だと思っている。
それから、甘寧が助けに来た事や、変な勘違いを、僅かに嬉しいと思っている事も・・・。
呂蒙はどこか嬉しそうに口元を綻ばせて、己の不精髭を撫でる。

「凌統、お前に将を一人紹介したいのだが、今は大丈夫か。」
「ああ、面白い策を持ってきたっていう・・・陸遜?呂蒙さんが連れてきた奴なら、早く顔が見たいですよ。」
「ならば早いほうがいい、丁度陸遜も練兵を行っている所だ、一緒に行くぞ。」

凌統は深く頷き、呂蒙の後ろをついて歩く。
呂蒙の足が止まった。
どうしたのかと覗きこもうとしたら、呂蒙が僅かに優しい目をしてこちらを振り向いた。

「凌統、戦が終わったら三人で祝杯をあげよう。」

そして、呂蒙は凌統の返答を待たずに再び前を歩きだす。
凌統は再び空を見た。
雲は合肥の船の上で見たそれより一層濃く、低い位置にある。雲々の切れ間は明るいが、雨が落ちてくるのは時間の問題だろう。
風は、孫呉ではあまり感じた事のない冷たさを持っている。
昔馴染みはこの場には誰もいない。
己の犯した深い罪を知る者も、甘寧ぐらいしかいない。
・・・この身体を知っているのも、甘寧しかいない。
その甘寧は、父の仇。
今だって、旧怨は忘れちゃあいない。

凌統は思わず顔を覆ってしまった。それは、屈辱だけではなく、別な感情もあった。
あいつは、何を持って、あんな事を言ったのだろう。
約束とか、好きだとか。流そうにも怒ろうにも、怒涛のように訳の分からない感情ばかりを押しつけられて、どうしたらいいのかわからない。

・・・でも。
甘寧の感情は置いておいて、父も兵も貞操も全部失っても、まだ生きているのだ。生きている意味が、あるのかもしれない。
顔を覆った掌をじっと見つめた。手足はちゃんとある。首も繋がっている。
目は前を見る事ができるし、鼓動はちゃんと皮膚を打つ。
みんな、汚れてる俺を知らない。
自分のことを理解して納得しているのなら、まだ何かやれるんじゃないか。
そう、思ってもいいですか?・・・父上。

「・・・やっぱり、まだ死ねないか。」

凌統は、呂蒙に気付かれないよう、ぽつりぽつりと降ってきた雨のようにそっと呟いた。





Mへつづく






続きます。