夜想曲・第一番(岱凌・現パロ)


※カフェ店員の馬岱と、大学生凌統です。




ロッカールームでTシャツを脱ぎ、洗濯したての白のカッターシャツに袖を通す。
下はスタッフ揃いのブラックのセンタープリーツパンツ。スニーカーから焦げ茶の革靴に履き替えたなら、深緑のロングカフェエプロンを腰に巻きつけて、軽く鏡で身だしなみチェック。

「いっくよ〜ぉ。」

馬岱は小さく呟くと、元気よくフロアへ向かう扉を開いた。




凌統は雨上がりの午後、行きつけのカフェに向かっていた。
台風一過とはまさにこのこと、気温は昼を過ぎたあたりからぐんぐんと昇りっぱなし。半袖の上に黒いシャツを1枚羽織って出てきてしまったが、今日はシャツもいらなかったな、と、アスファルトの照り返しを感じて思った。
道のところどころにある水溜まりの縁がキラキラと輝いて、道路沿いの雑草も瑞々しさ2割増だ。それなのに己のipod は空気を読まず、雨の日を讃える歌を流し始めたものだから、すぐに次の曲へと変えた。
目指すカフェは大学の通学路の途中、駅近くの路地裏にひっそりと佇んでいる。存在は知っていたが、それまで一度も中に入ったことはなかった。
そこへ、ここ3カ月は最低でも1週間に2回は通っている。最早立派な常連客である。
それまで凌統はカフェに行く習慣などなかったのに、どうしてこんなにも通っているのかと考えたけれど、それは単純に居心地がいいからだと思って、気分良く闊歩しながら道を進む。


見つけたのは偶々だった。
否、「見つけた」というより、「出会った」という、聊か恥ずかしい言葉のほうが似合う出会い方だったような気もする。
あの日、凌統はレポート提出のために急ぎ足で大学に向かっていて、一人の男性店員がホースを使って、店先の花たちに水をくれている所が見えた。随分と沢山の花を育てているなあ、と横目に思ったのを覚えている。
鼻歌を歌っていた店員の横を通り過ぎようとしたら、店員の持っていたホースが暴走して、いきなり凌統は大量の水を被ってしまったのだ。
店員も水に濡れていて、慌てて店からタオルを持ってきてくれて、店で乾かしていけと言われたけれど、あと1時間でレポートを提出しないと留年してしまう瀬戸際だったものだから、タオルをひったくるように貰って、その場を後にした。
その日の帰り。何とかレポートも提出できて、既にとっぷりと陽も暮れた時間に凌統は帰路についていた。昼間に水をぶっ掛けられた店は未だ明かりがついていて、そういえばタオルが鞄の中にあることを思い出す。
あんなことをされて既に印象は最悪であったが、店員も故意ではなかったのは明らかだし、タオルは借り物である。これを返して、さっさとあの店との接点を全て無くしてしまおうと凌統は片手にタオルを引っかけて、店に近づいていった。

「あ!ちょい!」

凌統はぎょっとした。
あの店員が、ドアの前にいたのだ。
店員は、凌統の顔を見るなりぱっと顔を明るくして小走りに近寄ってきて、凌統の手を取った。

「よかったぁ!また会えたよぉ!昼間、ちゃんと謝罪できなかったからずっと待ってたんですよぉ。・・・・・・この度は本当に、すみませんでした!」

店員が道の真ん中で、腰から直角に体を曲げて、凌統に頭を下げる。
確かに水を掛けられた時はつい憤慨したが、怪我をしたわけでもなくレポート提出にも間に合ったわけで、何よりこの店員から誠意がピシピシと伝わってくる。
それから、遅い時間とはいえ未だ人の往来はある。道のど真ん中でそんなことをされては、凌統もたまったものではない。
しかし店員は微動だにしない。凌統は空を仰いで小さくため息をついた。

「いや、あの、やめてくださいよ。俺はただ、タオルを返そうと思って。」
「タオル?・・・ああ、いいのに、そんなの沢山あるから持っていってくださいって。あの後、大丈夫でした?風邪は引いてない?」
「はぁ・・・。」
「それならよかった!あのう、うちの店カフェなんですよぉ。もしよかったらどうぞ入っていってください。お茶とお菓子、サービスしますよぉ!」

若干その男のノリについていけずに早々に帰りたかった凌統であったが、くりくりとした愛嬌たっぷりの灰色の目に「ね?」と覗かれてしまえばハイと言わざるを得ず、男に手を引かれるようにして、つい店内に足を踏み入れてしまった。

店内は静かだった。
客は一人もいない。一般的に昼間の飲食店は閉店準備をするような時間だったので、ここもまた閉店間際だったのかもしれない。ただ、どこからか昔のカンツォーネが丁度いいボリュームで流れていて、完全な静寂ではないのが救いであった。
凌統は店内の奥の、一番端の席に通された。

「お兄さんはコーヒー派?紅茶派?」
「あ・・・え〜っと、コーヒー派?」
「ん〜・・・イタリア式でもいいかな?」
「ああ、はい、お任せします。」
「あはは、わかりましたよ!」

というと、男はにっこりと笑って店の奥へ引っ込んだ。 しばらくして、店の奥から男の声と、他の店員の声が幾つか聞こえてきはじめた。聞いてはまずい話かもしれないので、他のことに気を巡らすよう、凌統はぐるりと店内を見渡した。
内装は深い茶で統一されており、壁を彩るタペストリーや窓際の小さなフラワーアレンジメントなどが絶妙なアクセントとなって点在している。レジの壁には、紅茶の茶葉やコーヒー豆を計り売りしているのだろうか、銀のアルミ缶とコーヒー豆の入った瓶が羅列されており、レジのすぐ脇に並ぶカウンター席の壁には、沢山のティーカップが設置してある。
それらはすべて店内を彩るオレンジ色の照明に照らされて、音楽もまた雰囲気に合っていて、とても温かみのある場所だなぁと凌統は思った。

結局タオルは受け取ってもらえず、行き場をなくしたそれをそっと鞄の中に突っ込んで、居心地悪くそわそわしていたら、先ほどの男が片手にトレイを持ってやってきた。
手慣れた様子でマットを敷いて、トレイからコーヒーセット一式をそっとテーブルに乗せる。カップの仕様はカプチーノ。
小気味よい音を立ててポットからコーヒーカップに注がれたのは、ふんわりとしたエスプレッソだった。途端にあたりに深い苦みの利いた独特の匂いが漂う。だが店員は、エスプレッソをカップの半分ほどまで淹れた所でポットを戻してしまう。

「お兄さん、コーヒーにミルク入れてもいい?」

特に何も考えず、凌統は頷く。

「よかった!ここからがイイ所なのよ、見ててよ〜。」

腕まくりしている腕をさらに腕まくりして、男はトレイの上に乗っていたミルクポットを手に取り、トレイを近くの椅子に置いて、腰を屈めてコーヒーに絵を描き出した。
その時、凌統はそっと男の顔を盗み見た。
彫りの深い顔は口元に笑みを浮かべていて、やや伏し目がちな瞳を縁取る睫毛はとても密度が濃くて長い。濡れたような黒髪はとても柔らかそうな癖っ毛で、雨の日は大層苦労するだろうな、などと思った。

「できまし、たっ・・・と。」

みるみるうちにスチームミルクとエスプレッソが見事な色合いを描き出し、絶妙な加減をつけながら現れたのは、カップから溢れんばかりのハートマーク。
コーヒーに絵を描く所はテレビでは見たことがあったけれど、こうして生で見たのは初めてで、凌統もついおぉと感嘆を漏らした。

「あと、お兄さんは甘いものは好き?」
「あんまり甘くないのなら・・・」
「じゃあ、大丈夫かなぁ?これ。スコーンと、シフォンケーキ。うちの自慢のパティシエが毎日焼いてるんだ、美味しいんだよ〜ぉ!・・・ではどうぞ、ごゆっくり。」

そういって男が席を離れたのを確認して、凌統は大きなハートマークが描かれたカフェラッテを一口飲んでみた。男子大学生が飲むには少々勇気のいる見た目ではあるが、味はとてもとてもよかった。最初にエスプレッソ独特の凝縮した苦みが広がり、すぐにミルクがそれを和らげてくれて、後に残るのはコーヒーの爽やかな後味。凌統はふいに今日の午前中の天気を思い出した。
夕飯もまだだったので、スコーンも頂く。皿の脇に盛りつけてあったジャムを少しだけ塗ってパクリ。

「・・・うまい。」

プレーンのシフォンケーキもまた素朴ではあるが卵の味をしっかり感じて食べやすく、そんなにどれかと比べられるほどケーキの数を食べていない凌統でも美味いと思えて、コーヒーもスコーンもシフォンケーキもぺろりと平らげてしまった。






それから、凌統は休日の午後や大学の合間にこのカフェに足を運ぶようになった。
ちなみに大学の仲間には内緒である。行きつけのカフェがあるといったら、“可愛い女の子でも働いているのか”などと言われそうで、変な誤解は招きたくないのと、ただこの場所を誰にも教えたくないからだった。

「いらっしゃいませ〜。あ、こんにちは。今日はどうしたの?」
「ん、レポート書き。」
「へぇ、頑張ってくださいねぇ!」

入り口を入ると、早速あの男性店員がいて軽く挨拶を交わした。
この店員をはじめ、凌統は店員全員にすっかり顔を覚えられ、凌統もまた彼らの顔と名前を覚えてしまった。
男性店員の名前は馬岱と言った。
他の客からも人気があるようで、よく声をかけられている。そのたびにニコニコと愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいて対応している。
今も、おば様方にリップサービスをしている真っ最中で、女性特有の甲高い声が次々に上がる度に、辺りに黄色い花が咲き乱れるのが目に見えるようだ。
ただ、最初に自分に淹れてくれたラテアートを、他の客に振る舞っている姿は今のところ見たことがない。

(・・・しっかしまあ、あの人はいつ来てもあんな感じだね。飽きないのかねえ。)

ふと、馬岱と目があって、とびっきりのウィンクをされた。
凌統はどうしてか顔を反らしてしまう。
それを紛らわすように、一番近くに居た関索(彼は一番若い店員で、馬岱共々女子に人気のウェイターである。)に声をかけて、アメリカンとスコーンを2つオーダーすると、凌統は鞄からノートと筆記用具と宿題のプリントを取り出した。

凌統が座る席は一番最初からずっと変わらず、1番奥の窓際の席である。
あの時は暗くてわからなかったが、この席のすぐ横は一面ガラス張りで、ガラスの向こうには、沢山の花が咲き乱れている庭が広がっていた。
そこはさながら一枚のキャンパスに描かれた風景画のようで、陽の当たり具合によって印象を変える様子を、わざわざスケッチしに通っている老人と出会ったことがあった。
また、庭に咲く草花の中にはハーブ類もあり、店からパティシエが庭に出てきて、葉っぱを幾つか採っている所を見たこともある。

「お待たせいたしました。」

関索が、コーヒーとスコーンを運んできた。目があうとニコリとほほ笑んで、アーモンド形の茶色の瞳が優しげにほころぶ。
テーブルに広げた電子辞書を少し横にずらしてどかすと、関索がそこにコーヒーとスコーンを置いていく。

「ええと・・・砂糖はいらないんでしたよね。」
「うん。あぁ、ちょっと待った。ちょっといいかな。」
「何でしょうか?」
「あの馬岱さんって、ここに勤めて長いの?」

凌統は関索に耳打ちするように尋ねた。すると、関索はクスリと笑って、凌統の真似をするように、そっと小声で伝える。

「ええ、私よりもずっと長いですよ。従兄弟の馬超殿と一緒に働いてらっしゃって・・・。」

曰く、馬岱の本職はこのカフェのバリスタなのだそうだが、どちらかというと接客が好きでああしてフロアを回っているのだとか。その他にも、簡単なパ二―ノ(軽食)も作れるし、ジェラートやドルチェの盛りつけ、果ては花達の世話でもなんでも出来る器用肌らしい。

「バリスタ?」
「ん〜、コーヒーのスペシャリスト、のことですね!」
「へえ・・・あ、もう一つ聞いていい?」
「?ええ、なんなりと。」
「あの人、コーヒーに絵を描くよね?」
「ええ。もしかして、馬岱殿のラテアートを見たのですか?」
「見たも何も、振る舞われた。」

すると、関索は目をぱちくりさせて、それはそれは大輪の花のような笑顔を見せて、凌統の耳に唇を近付けて、そっと囁いた。







「お疲れさまでした〜ぁ。」

朝から働いていた馬岱は、とうに勤務時間を超していたが、趙雲が明日の予約ケーキの下ごしらえをしていたのを見てつい手伝ってしまった。
気づいたら時計は既に夜の11時を回っていて、既に自分の仕事を終えて先に帰っている従兄が腹を空かして待っている風景が容易に想像できたので、慌てて着替えて店を後にする。
店の駐輪所に置いてある折りたたみ自転車のサドルに手を掛けた所で、店の入り口の下のほうに、見慣れない影があることに気付いた。
目を凝らしてみれば…最近常連客となった、凌統であった。
壁に背中を張り付けて、組んだ腕の中に顔を埋めるようにしてしゃがみこんでいる。ぴくりとも動かない。どこか具合でも悪くしたのだろうか。
でも、どうしてここへ?

「ちょい!どうしたのこんな時間に。具合悪いの?」

馬岱は自転車から手を離して、そちらのほうへ慌てて駆け寄って覗き込んで見る。
ゆっくりと顔を上げた凌統は、やや眠たそうな目をしているが、特にどこか具合が悪いようでもない。酒に酔っているわけでもなさそうだ。
ただ、瞳はどうしてか潤んでいて、表情もぼうっとしたままである。

「ああ、やっときた・・・。」
「やっと・・・って、え、俺を待ってたの?」

すると凌統はこくりと頷き、ゆっくりと立ちあがって鞄の中をまさぐる。中からずるずると引っ張り上げたものは・・・白いタオルだった。

「やっぱり、これあんたに返しておきたいと思って。」
「えっ・・・それだけのために?」
「うん。」

凌統は昼間、関索に耳打ちされた言葉を思い出した。

(馬岱殿はラテアートを滅多に淹れないんです。元気のないお客様を元気づける時や、誕生日のお客様とか…それから、馬岱殿自身が大好きなお客さんに淹れているとも聞きます。私は、馬超殿と喧嘩したときに謝罪とともに淹れていた1回しか見たことがないので、本当の所は、馬岱殿にしか分からないのですが。)

関索の話も憶測でしかないことは分かる。
しかし、きっと自分は馬岱にとって何かが特別であることもまた分かった。
そういえば、通い始めてからずっと、店に入れば何かと話かけられている。今日などウインクまで飛ばされてしまったわけだし。
真意が知りたいと思った。
悪い人ではなさそうだし、少しだけ歩み寄ってみようか。
丁度話すきっかけが1つ残っていたし、だからこうしてやってきたのだ。
だが、待てど暮らせど馬岱はずっと店の中。一応閉店後の時間を狙ってきてみたけれど、やっと出てきたと思えば既に日が変わろうとしている。
毎日こんな時間に帰っているのだろうか。
働き者だなあ。

「あんたのコーヒー、いっつも美味しいしさ。それに、返しておかないと俺が気持ち悪いわけよ。・・・それから・・・」

自分よりやや背の低い彼が瞳を大きく開く。どこかちょっと幼い顔になったので、大人っぽく見えるけれどもしかしたら年下なのかもしれないな、と凌統は思いながらほほ笑んだ。

「また、来てもいいかな?」

その言葉に馬岱は何度か瞬きをして。
差し出された白いタオルを受けとり、ぱっと笑った。

「勿論だよぉ!」






馬岱は、いつも店で流れているレコードの曲を鼻歌で歌いながら暗い夜道を自転車で駆けた。
今日も沢山の人を笑顔にしてみせた。昨日も、一昨日もそうだった。きっと明日も沢山の笑顔を見るのだろう。それだけで大満足だというのに、今日は最後の最後に自らまで笑ったのだ。
常にコーヒーは淹れている。ただ、ラテアートだけはちょっぴり特別で、本当に自分が淹れたいと思った人・・・お近づきになりたい人にしか淹れないことにしている。
例えば、そう、凌統のような人。
最初の出会いは最悪だった。水をぶちまけるなど、あんな失態を犯したのは本当に久しぶりで、水の滴る髪の隙間から覗いた一瞥を馬岱は今でも忘れられない。
謝罪すらろくにできずに去ってしまった後姿。あんなに水を被ってしまっては、怒って二度と店に近づかないと思うだろう。
けど、また来てくれた。
何度も来てくれている。それどころか、また来ていいかと言ってくれた。

(当たり前だよぉ!)

あの人は、よく店にやってきては真剣な顔で勉強している。
一番奥の席に通して正解だった、凌統の姿と窓の外の風景がぴったりで、いつ見ても飽きないのだ。
頼むものは決まってアメリカンとスコーン。時々アメリカンはフレーバーティに変わるけれど。
だからこそ、毎日気合を入れてコーヒー豆を挽く。明日も来てくれるように。
コーヒーは何が好きなのかな、どんな食べ物が好きなんだろう。どこに住んでいるんだろうか。
なんて呼べばいいだろうか。
もっと話がしたいな。こんなにわくわくするのは久しぶりだ。
自転車はアパートの下に辿り着いた。
さて、従兄は何で腹ごしらえをしているだろうか。
明日も頑張らなくては!

「若ただいまぁ!聞いてよぉ!今日いいことがあったんだよぉ!」

馬岱はアパートの玄関を元気いっぱいに開いた。












新境地ですw
某様よりリクエストを頂戴しました。カフェ・ドゥ・蜀漢で働く馬岱と、客の凌統です。
最初は岱に攻めてもらおう!と思ったんですけど、なんだか・・・どんどん可愛く思えてきちゃって・・・
岱は空気読める器用な子だけど、凌統のほうがお兄さん属性っつーか・・・逆に岱の気持ちを読んで絆されていくといいな〜と思いました。
このあと、馬岱はいつもよりテンションが高くて深夜なのに中華鍋を振るって、若を引かせればいいと思います。
話中に沢山イタリアンなものがでてきましたが、タイトルだけは個人的に馬岱のイメージソングにしてみました。