獣の鎖






夷陵に劉備が陣を張り、じわじわと孫呉へ侵攻してきたが、甘寧と凌統はじっと守りの戦を展開していた。
厳密に言えば、守っているのではない。守らされているのだ。
実際蜀軍と何度か刃を交えてはいる。けれど、全ての衝突において、孫呉は全力を出す手前で撤退しているのは、陸遜の策であった。
関張両将軍を失い、鬼気迫る蜀軍の勢いを孫呉の陣の奥の奥まで誘導して、丸ごと炎で包み込んでしまうというのだ。
甘寧はそれを褒め、凌統はお手並み拝見といった具合で、素直に従っていた。

しかし、守る時間が長く続けば、いつも戦場で互いの腕を競っている二人の体は疼くというもの。
だから再び勝負となったのはごく当たり前のことであったのだが、事の発端は凌統のぼやきだった。

(あ〜あ、殿が決めたことだし従うけどさ。やっぱりこうも守りの戦が続くとちょっと気が緩んじまいそうだねえ。)
(だな。おい、次に敵が攻めて来た時よ、撤退までどっちが多くの敵を潰すか勝負しようぜ。)
(いいね。あんたには負けないよ!)
(へっ、そいつはこっちの台詞だぜ!)

どちらかが勝負を持ちかければ、もう片方がほぼ確実に首を縦に振る。それがここ最近の孫呉の両輪と謳われる二人の将軍の日常だ。
甘寧は、凌統を勝負へ誘うのが心地よくて好きだ。それはまるで閨への誘いに似ている。吐き出す場所が互いの体ではなく、戦場というだけで。
それから、凌統の武は見ていて飽きない。孫呉の戦は水上戦が多く、両節棍のように軽く短い武器が扱いやすいことは知っているが、両節棍の扱いは勿論、背中や腰の捻りが繰り出す蹴りの強靭さといったら、体躯そのものが武器といっても過言ではない。
武器に頼り過ぎず、まるで一つの舞いのように戦う姿は勝負し甲斐がある。
魏の徐晃などが戦場で発していた“武の体現”とは、こういうことなのではないかとすら思う。
・・・絶対に、本人には言わないけれど。



が、しかし少々やりすぎた。
丁度敵の来襲があり、いざ勝負となった時、勝負に夢中になって引き際を忘れ、気が付いた時には敵に辺りを取り囲まれていたのだ。
撤退の道は既に塞がれている。
合肥でも似たようなことをしてしまったが、あの時と違って余裕があるのは、こちらが有利に動いているし、孫権がいないから。
むしろどこか気分が高揚しているのは、勝負と銘打っていても久しぶりに凌統と暴れたからか。

「またやっちまったか。こうなりゃ、後で陸遜に何言われるか分からねぇな。」
「やれやれ・・・。無理矢理突破して、適当に敵さんを撒いて退散するしかないね。」

甘寧は深くため息をついて、凌統は呆れたようにやや空を仰いで肩を竦めた。
その時だ。
敵の弓が静かに空を切り裂き二人目掛けて飛んできた。
辺りに乾いた音が響いたのと、凌統の首が仰け反ったのはほぼ同時で、甘寧は隣にいた凌統の一連の動きが妙に遅く見えて、思わず目を見開いた。
心臓の鼓動が止まる感覚、咄嗟に叫んでいたが、甘寧自身気付いてはいない。

「凌統!」

後方から糸で引っ張られたように凌統は後ろに崩れかけ、何とか足を突っ張って踏ん張り、倒れるのを回避したが。
後頭部で綺麗に束ねていた長髪が背中や肩にさらさらと落ち、首の黄色の巻き布とともに風に靡いた。
そして、髪留めと簪が髪のうねりをかき分けるように、からりと乾いた音を立てて地面に落ちた。
見れば真っ二つに割れている。髪留めが射抜かれたらしい。
よかった、頭は無事だ。

「・・・。」

まるで身代わりのように地に落ちたそれを、甘寧はどこかほっとして見つめたが、顔を前に向けた凌統の顔に息を飲んだ。
瞳が敵兵の一点を見据えている。中心にある瞳孔は、火が点いているように見えた。
嫌な予感がする。
そんなこと露知らず、敵の歩兵はこちらに刃を向けて走ってくる。

「おい、凌統。」
「・・・ぁっぶないね・・・。」
「おら、とっとと退散すんぜ。」
「敵さん、そんなに俺と殺りあいたいってんなら・・・・・・相手してやるぜ!」

甘寧が珍しく告げた“待て”という言葉は、凌統の耳に届いていないようだった。
凌統は棍を握りしめて、物凄い早さで敵陣の固まりに突っ込んでいく。
あの目は知っている。
戦に飢えた奴の瞳。箍(たが)が外れた猛獣の瞳。感情に飲み込まれた者だけが持つ瞳だ。
一人敵陣に突っ込んでゆくその姿は無謀なようだが、しかし甘寧はどちらかと言えば敵兵のほうを心配した。

「あの野郎・・・。仕方ねえな!凌統だけに見せ場やれるかよ!」

甘寧は副官に撤退の道ができたらすぐに引き、あとはこちらに任せるように伝え、自らは凌統の後を追うように駆けて行った。




肩で息をするくらいに敵を片づけた頃には、二人の周りには屍が累々と横たわっていた。
味方の兵は殆どいない。副官は上手く逃げたようである。
その数は最早数え切れず、甘寧も凌統も頭のてっぺんからつま先まで見事に血にまみれてずぶ濡れていた。
それもそのはず、気が付いたら、その場に立っているのは二人しかいないのだ。

敵陣に突っ込んだ凌統は、まさに鬼神の如き姿だった。
容赦なく敵の急所を棍で突き、横から来た敵兵の顔面に肘をめり込ませながら蹴りでふっ飛ばして。背中を見せようものなら、近くに転がっていた刀で袈裟掛けに斬り捌く。
いつもなら武の型に則った動きでもって、兵卒相手には情けをかけるように急所からややずれた所を狙って、命を取るようなことはしないのに、それすら忘れてしまって笑いながら武を振るう姿はまさに“大暴れ”。

(あいつにもあんなのが潜んでやがったとはな。)

甘寧はこちらに背を向けている凌統をじっと見つめている。
凌統は、屍の向こうをぼんやりと見ていた。もっと獲物を欲しているようにも見えたし、静寂の中に取り残されて虚無に茫然と立ち尽くしているようにも見えた。
いつもの束髪は未だ下ろしたままで、どこか違和感がある。凌統のようで凌統ではない不思議な感覚。
凌統はふいにうなじのあたりに指を差し込んで、髪を手櫛で梳かそうとした。けれど、血まみれの髪はべたついて上手くいかないらしく、仕方なく長い髪を耳にかける。
毛先を確かめるように振り返ったしかめっ面と目があった。

「あ、おい、甘寧!」
「・・・何だよ。」
「あんたのその鈴の紐、少し分けてくれないかい。やっぱ髪を流したまんまじゃ、邪魔なんでね。」
「いいけどよ。邪魔なら切ればいいじゃねぇか。」
「煩いねぇ。俺はこのほうがいいの!」

甘寧はしぶしぶ、己の鈴を結わえている紐の端を僅かに鎌の先で落とすと、凌統に放り投げた。
微妙な弧を描いた紫色の紐を難なく空(くう)で手にした凌統は、そのまま髪を大きく掻きあげて、血を含んで重くなった髪の束を作る。
甘寧はその様子をじっと見ていたが、髪についた血のおかげで、中々苦戦している。髪をいじる手も指もまた、血まみれだ。
先ほどの暴れっぷりとは打って変わった、孫呉の街をふらふら歩いている時や、いつもの戦で見る凌統だ。
わからない、どっちがお前の本性だ?

「おい、凌統。あの髪留め、相当気に入ってたのか?」
「違うけど。街で適当に見つけたやつだよ。」
「ンなチャラチャラしたもんを戦に持ってくるんじゃねえよ。」
「その台詞、あんたにだけは絶対言われたくなかったね。」
「あんなもんをぶっ壊されて、どうしてブチ切れたんだ。」
「あぁ?・・・不意打ち食らって、ちょっとムカついたんだよ。」

成程、不意打ちとはそんな作用があるのか。
すると甘寧は速足で凌統に近づいた。
何故か怒りや苛立ちに似た感情が己の内に燻っている。それは、凌統に近づけば近づくほど大きくなって、凌統の目の前までやってくると、凌統がこちらを見た瞬間に唇を奪った。
むせかえる程の血の匂いがした。
それなのに未だかつてない程の柔らかさもそこにあって、なぜか甘寧は背筋が震えた。

「・・・ムカついたか?」

貪りそうになった手前ですぐに顔を離し凌統の顔を覗きこんでみれば、見事に奴は呆れ果てた馬鹿面をしている。
先ほどの本能丸出しのあの表情が見たいのに。

「いや、ムカついたっていうか・・・呆れた?ていうか不意打ちのつもりかよ。なんか違うんだけど。」
「ムカつかなくてもお前もうちっとビビれよ。野郎に口づけされたんだぞ。」
「そりゃああんたも同じだろ?・・・ん〜、慣れてるわけでもないけどさ、そんなに驚く程ガキでもないんでね。」
「へぇ。上等だぜ。じゃあその続きは陸遜にこっぴどく叱られてからにすっか!」
「続きって・・・。そいつは御免だね。どうして戦以外でもあんたの相手をしなくちゃいけないんだっての。」

そして二人どちらともなく撤退し始めた。
・・・いつもの凌統だ。
甘寧の内で燻っている感情は爆発しそうなほどに膨れ上がり、凌統の束髪の根本で揺れている己の紐を見て、体が疼くまでに膨張してしまっている。
そこでやっとああ、これは欲情なのだと気付いた甘寧は、帰陣したら髪を解いて本気で襲って、そのすかした化けの皮を剥がしてやると考えながら妖しく笑った。










髪留めを壊されて、ブチ切れて大暴れする凌統が書きたかっただけなのです・・・。
そして勿論、二人とも正座で陸遜に怒られます。