誘惑・上(甘凌)





外の雨が激しい。
時期のせいとはいえ江も決壊し、風の強い夜となった。幕舎の中に居ても尚、腰の鈴がちりちりと鳴り、土むき出しの床にはところどころに薄く水溜りができている。
暗闇の中でごうごうと鳴る水の音は、何かの叫びのようだ。
甘寧は灯もなく暗い幕舎の中、荷駄の上に腰をおろしてじっと入り口の向こうの外の世界を眺めていた。


孫呉は、盟約を結んでいた蜀と袂を分かち、軍神関羽攻略中の曹魏と手を組んだ。
関羽が樊城で曹操軍と戦を交えている間、孫呉は関羽が治めている荊州に攻め入り、容易に手に入れている。
そして次に、攻め込む先はいよいよ樊城。
甘寧は、都督となった呂蒙とともに、他の武将達等と樊城近辺に砦を築き、籠城している曹仁達に合流せんと秋(とき)を待っていた。

じっと、甘寧は豪雨を見ている。
(畜生、俺なら今すぐ関羽の野郎に奇襲仕掛けて、敵の頭一つや二つ獲ってやるのによ)

でもそうしないのは、呂蒙からの指示がないから。
甘寧が孫呉に下り、時も幾分か経った。孫権を頭と認めた以上、好き放題やってもいられない。
意外なことに、陸遜も甘寧と似たような考えを持っているようで、雨が止みさえすれば奇襲に向かい、火計でもって補給庫を焼き尽くすのにとそっと憤っているのを昼間に見た。
つい、親指の爪を噛んだ。

(おっさんが号令掛けねぇなら、仕方ねぇが)

前の戦ならば呂蒙の指示がなくとも動いていただろう。けれど、今回は違う。
呂蒙は病を得ている。
普段は病と偽って軍議を進めてはいるが、飯に誘っても食が細くなったし酒も一滴も飲まなくなった。鎧に隠れてはいるが体躯も衰え、戦で戟を奮っても、すぐに息を切らせる。
人の気配がない所でぜえぜえと肺を鳴らしながら、呂蒙が血を吐いているところを甘寧は見てしまった。
呂蒙は打倒関羽に、命を燃やそうとしている。
そんな奴に、華を添えたい。
だから甘寧はじっとしていた。

ふいに、幕舎の外を一つの気配が横切った。
横切った気配は通り過ぎたかと思ったら一歩二歩と戻ってきて、数秒程こちらの様子を伺うようにその場にとどまっている。
気配が動く。
殺気はない。
幕舎に入ってきたのは凌統だった。

「なんだ、お前か」
「あんた、こんなとこにいたのか。探したぜ」
「お前が俺を探した? また首でも狙いに来たのかよ」
「今それ言う? そんな訳ねぇだろ」

仇の命を狙うどころの話ではないようだ。珍しい。
甘寧もまた、凌統の相手をしている余裕はない。
ああ、そのせいか。このクソみたいな雨は。
甘寧はふんと鼻を鳴らした。
凌統は、甘寧の隣にどかりと座る。

「……。」
「……。」

無言が続く。
土砂降りの水音は未だ響き渡っている。

あれほど執着していたこの首を狙うどころの空気ではないとは、凌統も呂蒙の病を悟ったのだろうか。
単に酔っぱらってからかいに来ただけならば……また、こちらの心中を察して来たのならば、邪魔だとか、どけとか、いつも通りにあしらうことができるのに。
しばらくして、あのさ、と、凌統の小さな声が聞こえた。

「俺、あんたを誘いに来たんだ」
「あぁ?」
「ちょっとこれから、敵さんにご挨拶しにいかないか?」

思わず甘寧は少し腰をあげた。そして凌統を見る。
正気か、おっさんの病をお前は知らないのかと歯裏まで出た。が、凌統は、しぃと、口元に人差し指をあてて静かしという仕草をし、言葉を飲み込む。
理由によってはこいつを殴る、だがここでいざこざを起こす訳にもいかない。
拳を握り締めたと同時にちり、と一際大きく鳴りかけた鈴に、素早く凌統の手が伸び、音を静めた。

「最後まで聞けよ。兵は連れていかない。制圧が目的じゃないし、今誰かが死んだら呂蒙さんの寿命がさらに縮むだけだしね」
「……何がしてぇ」
「あんたは鈴の甘寧だってばれないように鈴を取って、砦の兵長の首を一つ二つかっさらえばいいんだ。俺は嚢を被っていく。そうだね……あんたも嚢被ったほうがいいか。俺も俺ってばれないように、槍か刀でも持って行こうかな」

どういうことだ。甘寧は、凌統の言葉を己の中で繋ぎ、考える。
「……つまり何か。俺とお前ぇだけで行くってことか?」
「そうだよ。呂蒙さんにばれても俺たちが拳骨と説教喰らうだけ。なんか最近、暴れ足りないだろ? それにあんたがそういう気を使うっての? らしくなくてこっちがイライラするんだよ」
「……。」
「ここで俺からの誘いを断るなんて、まさかなぁ?」

凌統にしてはいい煽りかもしれない。そして謎の自身に満ち溢れている。
勝負じゃあない。ただ暴れるだけ暴れて、帰ってくるだけでいいらしい。命を散らすへまさえしない限り。
暴れて帰ってくるだけ”
“帰ってくるだけ”。 ここ数日だけで難しく考えすぎてはいなかったか。
さらに凌統はもうひと押しと言わんばかりに口角をあげて唇を開く。

「要は、敵さんにちょっと喧嘩を吹っ掛けにいこうってわけ。分かったかな。何だよ、鈴の甘寧様は鈴を取っちまったら喧嘩もできなくなるのかい? 情けない話だよ」

喧嘩の一言で、甘寧はぴくりと反応した。

「誰が喧嘩できねぇって?」

今自分はどんな顔をして凌統を見ているだろうか。
そうこなくっちゃと凌統は笑みを浮かべたまま肩を竦めた。

「その誘い、乗ったぜ。絶対お前ぇより敵殴ってやるぜ」
「はいはい。せいぜい致命傷負わない程度に気張ってくれや」

そして互いにいつもとは違う獲物を持ち、砦から出て北にある林の中で一刻後に落ち合う約束を交わして、凌統は出て行った。
沸々と、甘寧の中に熱い何かが湧き上がる。
じっとしてはいるが、先程までとはまるで違う。
豪雨がこちらの熱を冷まそうと必死なようにも思えて、甘寧は無意識に笑っていた。
ぐっと拳を握る。
喧嘩……喧嘩……。
反芻すればするほどに血が沸き、肉が踊る。

(凌統の野郎に唆されるっつーのが癪だが……そいつは暴れてからでいいか。いや、暴れついでにあいつを一発殴って……)

高揚が止まらない。
甘寧はしゅ、と腰から鈴が括り付けてある紐を引き抜き、早速荷駄の中から獲物を物色し始めた。


下に続く





久しぶりすぎて大丈夫かちょっと不安です。
すっごい甘寧を煽る凌統を書きたくて。もっとシリアスになるかと思ったのですが、そうでもないみたいです。
また近々更新できたらします。