波花(孫権と凌統)





うとうとと自らの室で転寝(うたたね)をしていた孫権は、ぼんやりと幼少の頃を思い出していた。



少し外の空気を吸い込もうと邸から庭へと出、書簡を読みがてら目の前で行われている兄の鍛錬を見守ろうと小さな階段に座り込んだ。
碧眼は書簡に落とされることはなかった。
じっと、兄の鍛錬から目が離せないのだ。
汗水垂らし、見えぬ敵を相手にしている兄の背中は大きく、広い。
今は遠征中である父の背中もそうだ。自らの真上に広がる蒼天はおろか、大地をも背負っていける力がある。
自らが生まれ落ちた世がどのような状況にあるかは、右も左も解らぬ頃から告げられている。

“乱世”

どう世が乱れているのか幼い孫権はよくわからなかったが、中原の命により賊を討つのに中華中を奔走していた父や兄が、洛陽より遠いこの揚州の地近辺の賊討伐にも力を注ぎ始めたのだ。乱世の影を知るには十分だった。
だから思う。きっと、自分は父や兄のようにはなれまい。せめて自らは二人の足手まといにならぬよう、治政の勉学に励もう。そして民たちと同じ目線であり続け、賊が逃げ出すような国づくりに励もう。そうすればこの土地はより固まり、豊かになるに違いない。
孫権は邸の奥よりやってきた張昭に告げた。

「張昭、兄上はああして鍛錬しておられるが、田を耕す民と同じとも言えるな」
「む?どうしました、若」
「民たちも汗水垂らして励んでいる。我々や土地のために。民達からずうっと遠い所にいるのは、私のように書物を読み耽る輩なのかもしれぬな」
「そのようなお考えを持ったのなら、若が勉学に励んでいる理由は十分にありますぞ。洛陽に住まう官達は民の存在を忘れた者が多いのです。民達とともに喜び、憂い、分かち合う事を知る者が地を統べるに相応しい」
「はは・・・私には力などないがな」

その時、碧眼の端に庭の奥の林が、がさりと動いたのが映った。

「誰だ!」

最近は賊とともに山越等も活発に動いていると父達の話しあいを聞いていた孫権は、自らの懐の匕首に手をやる。

孫権の言葉に鍛錬をしていた孫策も身体を止め、弟が鋭利な視線を送る先をたどり、しばらくそのあたりをじっと見つめる。
ややあって、孫策は旋棍片手に林に近づき木々を分け行っていった。

「兄上、迂闊に近寄っては・・・!賊かもしれません!」
「だったら俺がぶっとばしてやる・・・って、お前・・・」

生い茂る草木をかきわけてみると、そこにはへたり込んでいた少年がいた。
孫策の風貌を見上げ、大きく見開いている瞳は今にも涙を零しそうだ。そして、緩く開いた口は何も言わず、ただただ息を深く吸って吐くのを繰り返しているだけであった。
孫策は腰を降ろし、少年と目線をあわせた。
腰を抜かしている。そして、震えている。
少年のすぐ脇に散らばっているのは釣り竿と網だから、これから魚を獲りにでもいこうとしていたのか。
賊ではなさそうだ。

「お前、どうした?こんなとこで。何してる」
「・・・あ・・・さ、魚を・・・・・・父上が、獲っているから俺もと思って・・・でも、孫策様を見つけて・・・孫策様だと思って・・・見て、ました・・・」
「父上ぇ?お前の親父、何ていうんだ?」
「り、凌操・・・です」
「凌操の息子か!お前、名前何て言うんだ?」
「・・・りょうとう」

すると、途端に孫策は破顔し大きな掌をぬっと凌統のほうへ差し出した。
余りにも突然なことに驚いた少年は、殺されるのではとひと際大きく身体を揺らしたが、次の瞬間には思い切り頭を撫でられて、そして、身体が宙に浮いた。

「っわぁ!!」
「そういえば凌操に息子がいるって聞いてたっけなぁ。そっか、お前がそうなんだな!」
「兄上!」

茂みから子供ひとりを小脇に抱えてやってきた兄は笑い顔だ。そしてこちらへ近づいてくる。孫権は匕首にやった手は引っ込めたが、やや身構えながらこちらへやってくる兄に向かってつい叫んだ。

「何者ですか!?」
「権!こいつは俺達の味方だ!凌操の息子の凌統だってよ!」
「それは・・・」

そして孫権の目の前にやってきた孫策は、小脇の少年をすとりと孫権の脇に座らせて、お前の荷物、忘れてきちまったと後頭部を掻いた。
一体兄は何を考えているのか、さっぱり孫権は分からない。突然隣にやってきた少年も、何があったのか分からずにただただ唖然としている。
確か、凌操は最近兄の配下となった豪族だ。この地より少し、南東に住んでいると聞いたが。
ふう、と、張昭が溜息をついて孫権は我に返った。

「孫策様、孫権様のご友人にこの少年を?」
「おう!こうして見ると中々いいぜぇ、しかもあの凌操の息子だろ?武芸はどうなんだ?」
「ち・・・父上から鍛錬は受けてます・・・」
「なら、孫権様の護衛にはうってつけですな」
「おい張昭、馬鹿言うな。そんなんじゃねぇよ。権にも友人(ダチ)が必要だと思ってよ!」
「友人、ですか?」
「おう!」

兄の思わぬ言葉に孫権はつい横にいる少年を見たが、少年もこちらを覗くようにして見ていた所で、目が合った途端つい顔を背けた。
友人・・・友人・・・。
そういえば、居たことがなかった。
周りにいるのは家族、張昭、黄蓋、韓当・・・。家族と家臣だ。
兄には周瑜という友人がいる。時々邸を訪れては、兄とともに稽古に励んだり、兄に兵法を叩き込んだりしているが・・・。
孫権はそろそろと、隣を見た。
髪を一つにまとめて居心地悪そうにしている隣の少年の手足には、自らと同じような歳であろうはずなのに、既に兄のような細かい刀傷の痕がある。

「りょうとう・・・と、言ったな」
「は、っはい!」
「私は孫仲謀。宜しく頼む」

そして、孫権はそっと少年に向かって手を差し伸べた。が、少年は酷く驚いて黄蓋や韓当が父にやるように・・・拱手したのだ。
孫権は少しばかりそれが悲しく、胸が痛んだ。

「あ・・・有難きお言葉、です!」
「そのようにしないでくれ。私は本当にお前と友人になりたいと思う。だから、また来てくれ。そして私に武芸を教えてほしい」
「は、はい!」

自らと少年の間にある壁を解きほぐすように、孫権は少年の拱手した手に手をそっと乗せて、碧眼を綻ばせた。
そうされた少年もやっと顔を明るくさせて、その日は無事父・凌操のもとへ走っていった。



次の日、凌統は父・凌操に連れられて早速やってきた。
凌操は孫策と何か話をして、孫権にも頭を垂れて帰って行ったが凌統はそのまま孫家の邸に留まり、どちらともなくぽつりぽつりと話をしだした。
好きな食べ物のこと、長江や船のこと、互いの父のこと・・・。そんな話をいくつかし出して、凌統は最初こそ数日開けてから孫家にやってきていたのが、孫権と意気投合し毎日やってくるようになった。
態度も、最初は孫権の言葉にびくびくしながら恭順していたのが、段々緊張がほぐれたのか自ら孫権を誘って武芸の稽古をしたり、馬に乗ったり、船で近辺を散策したりしはじめた。その代わりに孫権は、凌統に文字の読み書きや兵法を教えたのだが、どうにも凌統は机上事は苦手らしく、すぐに筆を放り投げてしまう始末。仕方なく周瑜に付き添ってもらい、何とか文字は叩き込んでやったが。
そんな日々を、孫権は心から楽しんでいた。
落馬しそうになった自分を笑う凌統に向かって怒り、逆に文字を書き間違えた凌統を笑い、共に船から江へ落ちてずぶ濡れで帰った時は爽快すら覚えた。

ある日、凌統から誘われて近くの丘まで馬を走らせた。

「ここ、ここですって!孫権様!早く早く!」
「り、凌統、そんなに急かすな。また落ちる!」

凌統に袖を掴まれながら、孫権は木に昇り、枝に座ってふうと一息。そしてやっと辺りを見渡した。
青い空と緑豊かな大地が広がっている。

「美しい大地だな・・・父や兄上は、この地を守ろうと奔走している。武門の孫家に名を連ねる私にはそんな力などないが、守りたい。・・・はは、こんな話をするのは張昭や尚香以外の人間に告げるのは初めてだ」

つい言葉が出た。
隣の凌統は穏やかな顔で瞳はじっと目の前の風景を見据えている。

「孫権様、この地に生まれた事、俺は誇りに思います。それから・・・」

凌統が次の言葉を言いあぐねているのが碧い瞳の端に映ったが、孫権は何も言わなかった。

「・・・多分、俺はそのうち孫権様の友人じゃなくなります。父上と同じように一臣下になります。孫権様がこの地を守りたいなら、俺は絶対守るし・・・でも、いつだって話は聞きますよ。俺がそんな風に話ができるのは、孫家の中では孫権様だけだし」
「友人じゃなくなるのは遠くなるようで少し悲しいな」
「・・・」
「しかしすぐに訪れることではあるまい。これからも私に武を教えてほしいのだが、どうだ」
「そりゃあ勿論!だって孫権様、やっと刀をまともに扱えるぐらいになりましたし?」
「や、槍も持てるぞ!」
「あと棍と、戟、弓ぐらいは上達してくれないとですねぇ〜」

そして、二人は悪戯っぽく笑いあい、どちらともなく再び眼下の風景を見つめ出した。

(・・・せめて私より、長く生きてくれ。凌統)



孫権が考えるよりも早く、凌統は臣下になった。
凌操が討ち死にし、直後に凌統が跡を継いだ。
凌操を殺した張本人の甘寧を迎え入れたが、凌統は何も言わなかった。旧怨に対して何も思わないわけがないのに、孫権に対して何も告げなかった。
しかし凌統の代わりではないが、時折文官達から何故甘寧を登用したのか声があがったが、孫権はそれらを“孫呉が強くなるには奴の武が必要だ”と、全てはね返した。

“甘寧と言ったか。問う。貴様は何故黄祖の元にいた。以前は劉表のもとにいたと聞いたが、水賊でもあったようだな。”
“孫呉に行く道を黄祖の野郎に阻まれただけだ。劉表は仕え甲斐のねぇ野郎だった”
“・・・”
“おう、孫呉の王様よ。俺の首はやる。他の連中もどうなってもいい、でもっ蘇飛だけは・・・蘇飛だけは見逃してくれ、頼む!”
“・・・何故だ”
“あいつは・・・黄祖の元で唯一俺を理解してくれた奴だ!友人(ダチ)なんだよ!おら、俺の首を刎ねろ!そんで蘇飛は釈放しろ!!”
“・・・友、か・・・・・・賊徒でも恩は忘れぬのだな”
“・・・”
“解った。甘寧、貴様と蘇飛。そしてお前たちに付き従う者達共々孫呉に迎え入れよう”



時が過ぎてしばらくしたのち、孫権は甘寧と凌統が友人のように他愛もない話をしているのを目にした。
そこへ自らも分け入りたかったが、今や臣下の言葉に耳を傾ける己しかいない事に気づき、いつしかその“友”と呼ぶべき臣下たちは、皆、もういなくなっていた。
独りになってしまった。
ふと、窓から景色を見ようとしたが、生憎外は夜空で風景を愉しむことはできなかった。

「・・・飲むか。」

未だ酔いが醒めぬ老体を起こし、孫権は独り卓の杯を取ってすすり始めた。
どうして今、私は涙を流しているのか。誰か教えてくれ。








無双孫権と凌統が小さい時に邂逅していたら、な話でした。
小さいときは友達だけど、段々主従関係になっていくんだろうなと思って。
凌統はそれが当たり前に思っているけど、孫権は少し寂しくなっていくんだろうな。
そしてどんどんみんなが逝ってしまってより寂しくなるんだろうな