薫る風(信隆)

四国の鬼が嵐だとすると、その息子は初夏の薫風のようだ。
突然来ることはあっても、一言無しに部屋に入ることはない。
決まって柱のどこかを大きな拳で軽く打ち鳴し、己の存在をこちらに示してからはじめて、敷居を跨ぐ。

「隆元、遊びに来たよ。」

黒髪が風に靡けば、墨の香りが漂ってくるようでつい目を細めていると、この者の父の声と、我が父元就の言い争いが聞こえる。時々あちらの父が庭先にふっ飛ばされるのを見てヒヤリとするが、あのように父上が大声をあげるのはあの方のみ。
戦国の世であるのに、平和だな、と、つい顔が緩んでしまうのだ。

信親は隆元の部屋に来ても何もしない。隆元が常に何かしているからもあるのだが、話し掛けることも、そばに寄ることも、見つめることすらもしない。
隆元が幾度かちらと様子を見てみれば、ただ黙ったまま外を眺めているか、棚の書物を適当に選んで楽しんでいるか。いづれかをしていた。

「隆元〜。」
「なんでしょう。」
「紙と硯と筆、貸してくれないかなぁ?」

部屋で珍しく話しかけられ、隆元は不思議と嬉しくなって、文机の上のまとまった紙を彼の前に出し、殆ど使ったことのない唐物の硯箱を箪笥から出して与えてやる。
しかし隆元がしたのはそこまでで、書きかけの書状と先の戦の評定をまとめるために、再び文机に向かった。

後ろから筆が紙の上を滑る音がする。

「何を書いてるのですか?」

いくら待っても信親は答えない。
庭先から穏やかな風が吹いてくれば、今度は本当に墨の香りが鼻に届いて再び目を細めた。

返事がない。
それもまた良しと思えるほどの、穏やかな日だ。





「何をしてるんです?」

書きものが一段落して、後ろを振り向いてみれば、信親の周りには墨で書いた絵が沢山散らばっていた。
まるで前の時代の雪舟かと数枚を手に取って見てみれば、ここから見える庭の風景だとか、今や土佐名物になりつつあるカラクリ兵器の数々だとか、蟹や魚だとかが、それは見事な筆さばきで細かく描いてあった。
しかし時にその作者は今や筆を置き、残った紙を熱心に折っている。

「この蟹は?」
「ああ、さっき食べたいなあと思って。」
「ならば、こちらの柿も?」
「うん……。」
「貴殿は手先が器用だなあ。」
「うん……できた!」

どうやら折っていたものが完成したらしい。まるで童子のように目を煌めかせ、何もいわずに隆元の手をとると手の平にそれを乗せた。
小さいながらそれはちゃんとした人型を為しており、頭には立派な烏帽子をのせて、構えをとっているからどうやら武士か芸者のようだ。

「…これは…?」
「那須与一だ。」

横から伸びてきた指先にはこよりで作った小さな弓があり、紙人形の折り込まれた腕のあたりに通せば、しっかりと固定されて一段と武士らしく見える。

「なれば。」

隆元は信親の前の紙を一枚取り、両端を寄り合わせ即席の船と、切れ端の紙で扇を作った。こよりを作って片方の端を扇に、片方を船につけた。

「これで、よいな。」
「あっはは、屋島か!」
「ああ。…しかし…」
「しかし?」
「私が作った船は…いささか不格好だ。」

即席とはいえ、船というかこれでは納豆の藁のようだ。
きょとんと隆元を見つめたままの灰色の瞳は、すぐに柔和な笑みに変わり、再び隆元の手をとった。

「そんなことないよ………………そんなことない。」
「……二度もいうな。」

手の甲に唇を落とした時の、伏し目を飾る睫毛が意外と長くて心の臓が跳ねたこと、知られてはなるまい。







二人で何気ないなにかをしているのが書きたかったのだと…。