夢の続き(現代信隆)


※輪廻も含んでおります。ご注意を。


誰もいない。
何も聞こえない。
あるのは自分だけ。
深い深い闇がどこまでもどこまでも続く。
膝の下が、何か液体に浸かっているような気がする。
しかしそれが液体なのかどうかも暗くて何かわからない。
足裏に感じる感触が地面であるかすらも危うく、五感がなくなってしまったかのような錯覚を覚えた。この空間がどこまで続いているかとか、そもそもここは何処なのか少しでもヒントが欲しくて辺りを見回すが、膝下で淀む液体は生暖かくて、まるで羊水みたいだなと感じたところであれこれ考えることを止めた。

水面に黒い光が宿り、自分を中心に液体が波紋を作り出していた。

波紋は大きなスクリーンとなり、モノクロの映像がサイレント映画のように次々と流れてゆく。


城、父、弟、船、戦、刀、弓、槍、血、傷、屍、毒、空、花、

紫・・・


突然激痛が身体の内側から外へ広がり、前屈みになって倒れた。
跳ね上がる雫、濡れる。

鋭い吐き気に脂汗が浮き、思わず眉根を寄せて閉じた目を開いたら信じられない光景が広がっていた。
羊水だと思っていたのは、真っ赤な血の池。
身体のほぼ全てがそれに浸かり、おののいたのと吐き気とで喉が小さく震え、込み上げてきたものを手で受け止めた。
自らが吐き出したものもまた、赤い赤い、赤ー。
吐き出しても吐き出してもそれは込み上げ、いつしか吐き出すものがなくなり、それでも吐き気はおさまらずに苦痛だけが残った。


「生マレテコナケレバヨカッタ?残念ダ モウ遅イ」


耳の裏で骸骨が呟いた。



「・・・・・・・・・。」

いつもと変わらない朝の自室が視界に入った。
けたたましく鳴る目覚ましの音が頭に響いて痛い。
呼吸は荒く、肺が重い。
起こした身体は汗にまみれていて、ようやく喉が酷く渇いていることに気が付いた。

「またか・・・」

隆元は、さっきまで見ていた夢を思い出せず、苛立った拳で一度だけ、強く布団を叩いた。



ここ最近、信親は大学の学食でよく隆元を見掛けたが、その背中にはどこか影があった。
見掛けて軽く話をしても、あまり気にかけると今度は隆元が気に病むかとそれについては触れないでいたが、段々陰が濃くなる一方では見過ごすわけにはいかない。
適当に選んだ日替わり定食(大盛)を持って近付くと、隆元はまた背中で溜息をついていたから、信親は眉毛を軽くハの字にして溜息が伝染した。

「今日も学食なんだ?」

隣に膳を置いて話かけると、返ってきたのは力のない笑顔と目線だけで、ますます心配は募る。

「何か、あったの?」

隆元の前にあるきつねうどんは殆ど手をつけていない状態で、麺が伸びきってしまっていて、それでも隣の彼は頬杖をつきながら箸を弄ぶばかり。
数日前にここで会った時も殆ど食べずに残していた。何かないわけがない。どこか病気なのではないかと尋ねようと少し口を開いたら、隆元の視線は窓の外に向かっていて、顔をしかめて陽射しが強いと呟いた。

「具合、悪い?」
「いえ・・・精神的なものというか・・・夢を見るんです。」
「夢?」
「とても怖い夢をここ数日・・・。どんな内容かはいつも起きると忘れているんです。それで、またあの夢を見るかもしれないと思ったらなかなか眠れなくなってしまって。おまけに食欲もなくて。」

と、少しだけ箸でつまんだ油あげの端をかじる隆元を見ながら、信親は己の前のコロッケを食べる。

「う〜ん。どんな夢?具体的じゃなくても、言えば少し楽になるかも。」
「いいえ。それが全く・・・あ。」
「・・・?」
「服が・・・服が、私、緑色の和服を着ていました。」

自らの袖の袂。
それは、シャツとかジャケットとか、いつも着ているものではなくて、よく時代劇やなんかで目にする和服のそれだった。
隆元が覚えていることといえば、それだけだったのだけれど、信親を動揺させるには十分であった。



遠い遠い、昔の記憶。
九州に遠征しにいくことを告げに中国に向かったのは、勝つ見込みの無い戦だったからだ。
それでも行かなければならないのは家のためであり、豊臣に譲った天下泰平の世を築くためでもあった。
察しの利く隆元は、珍しく酒を口にした。遠征に関することは何も聞かず酒に付き合うという彼らしい配慮を目に焼き付けておこうと、自らはあまり飲まずに目の前の酒を飲む口元を眺めていた。
酒に酔った男の戯言だと隆元が前置きを口にする。

“私は毛利の嫡子として生まれたことを、今まで一度たりとて良く思ったことがない。私にとって束縛でしかなかった。辛いと口にすることさえ許されなかったのだ。・・・受け入れることが腑に落ちなかった。そんな器の狭い私が家督を継ぐものでいいのかと、考えれば考えるほど、負の螺旋は続いていって・・・。”
“・・・。”
“されど、不躾かもしれないが、こうして貴殿と対等に酒を酌み交わすことができるのは、毛利の嫡子だからこそなのかもしれないと思ったとき、毛利の嫡子として生まれたことをはじめて良いものだと感じた。それから・・・私が辛いことを貴殿に伝えることはできるが、伝えたところで貴殿に私の荷を背負い込ませることにはならないか、と気付くことができたのも・・・”

月に影がかかり、緩やかな風が通りすぎてゆく。
行灯の炎が揺れ、隆元の瞳が揺らいだような気がした。

“生まれ持った命(めい)を受け入れねばならぬ覚悟、やっとついた。私は毛利を支えてゆく。だから、信親殿。貴殿も長曾我部を支えよ。”

月の光を反射した隆元の瞳が潤んでいたのは、酔っていたからだと思いたい。
饒舌になった彼の願いは届かなかった。
それを自覚したのは、戦のない世界に生まれしばらく経った頃。
テレビの電源をつけたかのように、急に知らない映像が瞼の裏で流れ溢れ出した。
遠い空。
遠い海。
遠い過去。
体を貫く感覚、意識が朦朧としてゆく中で、想った人はただ一人−。
現代に生まれ、思い出す直前まであった“今の生活にある全て”に酷い違和感を感じ、あまりにも広い世界にどうすることもできず路上で泣いた。
父や弟たちの昔と変わらぬ姿だけがやけに嬉しくてまた泣いた。
あの頃の記憶を持つ者などどこにもいない。
どこにも彼がいない。
“昔の彼”の最期は、本で調べて愕然とした。
それでも今までやってこれたのは、ずっと探していたから。

「どう、しました?」

ふと気付くと、隆元が顔をのぞき込んでいた。

「あ、考え事。」
「貴方もそんな顔するのですね。」
「・・・俺、どんな顔してた?」
「寂しそうなお顔を。貴方らしくないです。」

(らしくない、か。)

昼休み時間は半分を過ぎて食堂は段々空いてくる時間だが、喧噪はさほど変わりない。一瞬の間だったが、信親はこの喧噪がひどく愛しく思えて、目を細めて笑った。
今はこれでいいのだと。
あの時の彼は、死んだ。
己も死んだ。
でも、また、同じ空の下で二人で笑い合っている。
どうか、思い出さないでください。
もっと、傍にいたいから。
ずっと探していたのだから。

「あ、あのさあ。もし夜眠れなかったら電話してきてよ。番号教えるからさ。」
「でも、それでは信親殿の睡眠時間が・・・」
「あ〜、いいのいいの。うち結構怠惰な生活だから。だから大丈夫。たまに親父の酒の付き合いしてるし。」
「あはは。・・・ああ、久しぶりに笑ったな。では、お言葉に甘えます。」

すると、隆元は食欲が戻ったかもしれないといって、うどんに手をつけはじめた。美味しそうに頬張る様子を見て、信親もまた、目の前の学食に手を付けはじめた。

陽射しが強い、午後である。







これもまた以前フリーで配布していたものです。