震える(毛利両川)

※輪廻を含みます。ご注意ください!


久しぶりの夜の嵐の咆哮は、元春の睡魔を吹き飛ばしてしまった。
数刻前に消してしまった油皿の芯にあかりを灯し、スンと軽く鼻を鳴らすと文机に向かった。

気を落ちつかせる術は人様々だ。
瞑想する者、茶を点てるもの、馬に乗るもの、鍛練にはげむ者。
元春は“文字を書く”ということがそれに相当する。
元春は気を落ち着かせる以外にも、少し暇(いとま)があるときにもそれを行っていたから、趣味も兼ねていた。
その内容や出来、成果は望まない。ただ、書物をひたすら「書く」。それが重要なのだ。
やはり、書物一冊を丸々映し終えた時は流石に嬉しくなるものだが。
父・元就は、元春の書写に対し、そのような軟弱な真似事はやめろと顔をしかめて咎めるが、父の性格上そういうことは分かっていたし、元就も強制的にやめさせようとはしなかった。

今は源氏物語を写している。
まだ誰にも見せたことがないそれは、元就が大嫌いな書物の第一だ。これが見つかったらきっと破り捨てられるだろうと、微かに口元に笑みを浮かべて紙に筆を下ろした時だ。

(元春・・・)
後ろの襖が開いたような気がした。
だが気配がしない。
外は雨風がごうごうと館を飛ばさんばかりに荒れ狂っている。きっと、どこかからの隙間風が何かを舞いあげたのだろう。

「元春兄・・・」

今度の声は確かに聞こえた。
聞こえたのだが。
どうしたことだろうか。
いつも怒り狂って我を見失う自分を諫めるほうに回り、常に自信に満ち溢れ、冷静を保っている男なのに。
今の声は柄にもなく、何かとても大きな虚を抱えているような。
戦を仕掛けられたか?
常ならぬものを感じ、覚悟を決めて後ろを振り返る。
想像以上にひどい顔をした弟が立っていた。
その格好だってどうだ。
どんなに急いでいても、自分の部屋から一歩外に出るときはいつだって悔しいくらいにきっちりと身形を整えてくるのに、今は見事な着流し姿。
片手には脇差が、とるものもとりあえずという格好でぶらさがっていた。

「どうした?」

隆景はすぐに答えない。
だらりと伸ばした指の先だけがひくりと反応しただけで、瞳は明かりに灯された目の前の壁のあたりをず呆然と見つめていた。

「おい?」

できるだけ、優しく尋ねた。

「隆元兄が・・・・・・・・・・・・・死にました・・・」

どこからともなく吹いてきた風が、あかりを揺らす。

「・・・誰が?」
「・・・・・・隆元兄が・・・」
「どうしたと?」
「・・・お亡くなり、にっ・・・」
「誰、といった?」
「っ隆元兄・・・」
「嘘だ。」
「何度も言わせるな!!嘘ではっ、ないっ!」

嘘だ。
嘘に決まっている。
だって、兄は、兄は。
昨日の朝一緒に、一緒に館の縁側で、一緒に、笑って話したじゃないか。
あの目はいつだって優しくて、厳しくて、頼りないけれど柳みたいに穏やかで。
そうだ、隆景はまた子どもの頃のように謀ろうとしているんだ。
そうだ、そうに違いない。
なのに、隆景は子どもの頃しか見せなかった涙を流して嗚咽をこらえているではないか。
隆景は、何も言わない己を見据え、震える唇を開いた。

「和智に・・・和智に毒を盛られたとっ!・・・さ、先ほど斥候からっ・・・・・・っ父上、っ既に、和智を八つ裂きにせよとっ・・・下知をっ・・・」

そこまで言って、隆景は崩れた。
脇差が手から転げ落ち、覗いた刃がこちらを睨む。
ごうごうと外が五月蠅い。
言っていい冗談と悪い冗談があるぞ、隆景。
嘘なら今すぐ、今すぐに弟を殴り飛ばしたい。
作った拳は手のひらに血が滲むほどに硬くて。
弟が嘘を付いているとは思えなくて、只、床を見た。

(何故だ。)

途端、こみあげてきたものがぼろぼろと頬を濡らした。

「何故だっ!!」

文机の上の筆箱を腕で払っても、畳が黒く染まるばかり。

「戦だ…戦の用意だ!今すぐ和智一派を、尼子を殺してやる!」
「お待ちください!、兄上っ!!」
「殺してやる・・・殺してやる!」

夢ならばいい。
兄と己と弟で、三人で毛利を繁栄へ導く夢と、今起こっている現実を、誰でもいいから取り替えてくれ。





「・・・。」

外は嵐ではない。晴天だ。
ここはどこだ。俺の部屋だ。
枕元に置いた携帯が、見事設定した時間に設定した音を奏でていて、やけに頭に響くと思ったら、枕が盛大に濡れていた。

(泣いてたのか・・・)

携帯を止めながら思い出す。
ああ、どんな夢だったっけ。
あれは自分だ。
今も自分だ。

「・・・そういうことか・・・。」

元春は自嘲気味に笑って寝返りを打った。
しかし何ということか。
あの出来事以降、自分がどのように生きどのように死んだのか上手く思い出せないのに、あの頃の父の顔も、兄の顔も、姉の顔も、弟の顔も、すぐに思い出せた。
それは、「現在」も寸分違わず、この薄いコンクリート壁の向こうに在る。
そう、また、同じ屋根の下に・・・。
また夢の続きを見ているようで、また、頬が濡れた。
また、携帯が鳴る。
今度はアラームではない、メールだ。
手に取ってみると、その送り主の名前と内容に少し驚いたのだけれど、それよりも深い深い嬉しさは、表情だけでは物足りないくらいだと。そんな風に思って返信した。

それから程なくして遠慮がちにノックされ、元春が返事をする前にドアが開いた。
そっと覗いた顔は、怯えた所を殆ど見たことがないのに、どこか迷っている幼い弟。

「入れよ。」

ベッドから体を起こして促せば、弟は小さく失礼しますと呟いて、足を踏み入れて、近くにあった椅子に腰かけた。



ひどく、無言の時間が続いた。
どのくらいだったろうか。
台所から朝餉のいい匂いが漂ってきた頃まで、だったのは確実だ。

「見たのか?」

何を。
不思議と応えが返ってくる自信はあった。
すると弟は。
音もたてずに立ち、フローリングの床に胡坐をかいて、堂々と辞儀をしてみせた。

「お久しぶりです、兄上。」

その声が、震えていた。
そういえば。
この弟、生まれた時から身内を“父上”“兄上”と古めかしく呼んでいたが、今の今までなんの違和感も感じなかった。

「・・・久しいな。」
「ええ。」
「まさかまた、兄弟になるとは。」
「私たちだけどころか、父上もいるではないですか。それから・・・兄上も・・・」

隆景のいう兄は元春ではない。
もう一人のほうだ。

どれだけまた逢いたかったことか。
どれだけ貴方を失って悔しかったことか。
きっとあの人は、気づいていない。
ぼろぼろと、涙がこぼれた。
隆景もぼろぼろ泣いていた。

「・・・今日が日曜でよかったですね。これでは学校に行けそうにない。」
「うん・・・・・・飯、いい匂いだな。」
「っ・・・いい匂いですね。・・・お腹空きました。」
「うう、まだ涙止まんねえ。」
「全く不甲斐ない兄だ・・・全然変わっていないではないですか。」
「うるさい。お前だって泣いてんじゃんか。お前のかわいくないとこも全然変わってない。」

この薄い壁の向こうで。
あの人はきっと、笑顔で朝食を作っているんだろう。
今、それを見てしまったらまた泣いてしまいそうだから。
もう少しだけ寝坊させてくれ。







大河の毛利を思い返して、みんな幸せになればいいな〜と思って書いた。所詮安易な願望であり現実ではないけれど。
リアルタイムで見ていたので、隆元お兄ちゃんのあの回は思い出しただけで少し凹みます。