鬼の誘い(忠+弥次)



”孫次郎様は、須崎の者にとっては元親様や盛親様よりも身近な殿です。
ご本人は土佐岡豊に向かう時と戦に出かける時以外は、とても質素なお着物を着、兵卒と同じようなものを食べているとお聞きします。
また、よく城下にも顔を出してくださっては、百姓共とも気さくにお話をして笑いかけてくださるのです。
神社に神楽を奉納する時など、私共に孫次郎様自ら舞を披露して下さいました。
だから、孫次郎様が京へ行く支度をしていたのは、決して元親様から逃げるためではございません。
どうかどうか、我らに孫次郎様を返してください。”

津野親忠に任せている所領の百姓共から盛親宛てに寄せられた書状を見たとき、真っ先に顔色を変えたのは久武だったのを、桑名弥次兵衛は見逃さなかった。

親忠を幽閉したのは盛親の父・元親だが、その元親はすでにこの世にいない。
世間は徳川に傾きつつあり、日ノ本が大きく揺らぐ日は迫っている。そのような悪い時期に元親が死んだことは、長曾我部にとって大きな痛手だった。

元親がすぐに親忠を殺さなかったのは、このような百姓たちの声があるからであり、幽閉したのも百姓たちの声があったからこそだった。

親忠は本家である長曾我部よりも、所領と密着しすぎたのだ。

そこにつけこんだのが、久武内蔵助だ。
内蔵助は、親忠が藤堂と通じていることも絡めて、盛親に進言してきた。
元親の後を継いだ盛親は、内蔵助の言うことははなっから信じてはおらず、わかっているつもりだった。
大きな戦が過ぎれば、経過を待って親忠を解放して須崎に返そうと。
そこまで兄は歪んでいない、むしろ力を貸してくれようと。
弥次兵衛もわかっているつもりだったが、一つ気がかりがあった。



ある日。
弥次兵衛は東国に目を向け忙しい盛親からの命を受け、親忠が幽閉されている霊岩寺へやってきた。
命はなんてことはない、”兄の様子を見てきてくれ”ということだった。

寺の和尚に挨拶をし、孫次郎殿は本堂で経を読んでいるというのでそちらに足を運んだ。

何かが聞こえてくる。
空は曇っていた。
足を進める度、途切れることのない低い囁きは大きくうねり体に絡みつくようで、それは本堂の奥から聞こえてくると分かった時には目の前に本堂の入り口があった。

「孫次郎殿、御免。」

ひとつ、声をかけるが不思議な声はブツブツと鳴りやまない。

「孫次郎殿。」

同時に社殿の屋根にとまっていた鴉がカアと鳴き、声も途切れた。
弥次兵衛はひとつ眉を顰め、スラリと障子を開く。
と、小さな観音像の前に、白い木綿の着流しでこちらに背を向けて座る人が、一人。
堂内の暗がりの中で、短くした銀の頭と白い木綿はどこか不釣り合いだった。

「何を、唱えていたのですか?」
「・・・・・・・・・経を・・・。」
「・・・経、ですか。」
「・・・ええ。父上や、母上、兄上たちのための、経を・・・。」

なんというか細い声。
以前のあの土佐の華を一身に集めたような輝きはどこにもなかった。

「弥次兵衛。」
「はい。」
「・・・盛親殿は、お元気ですか?」
「はい、お変わりなく。」
「そう、ですか・・・。」
「・・・。」
「弥次兵衛。」
「はい。」
「私は・・・もう、いつ果ててもいいんです。」
「・・・。」
「親実殿や親興殿の手前、引くこともできませんが・・・内蔵助も盛親殿のことも、なんとも思っていません。」

ゆっくりと振り向いたその顔に、弥次兵衛はハッと息を飲んだ。
顔を覆う銀糸の間から覗くドロリと淀んだ眼は黒く。
白い顔に浮かぶ赤い唇は、血を含んでいるが如く。

(・・・呪詛だ・・・)

経などではない、呪詛を読んでいたのだ。
彼は本当に経を読んでいたのかもしれないが、あの寂しく黒い念は悲鳴だ。
彼は静かな悲鳴をあげている。
本当に長曾我部の鬼となってしまう前に、何とかしなくてはいけない。

「親忠殿。」
「はい。」
「・・・今何がされたいですか?」
「・・・。」

白い顔が、見えない空を仰いだ。

「舞を・・・舞いたい・・・。」

それから、盛ちゃんに会いたい。
それから、須崎のみんなに会いたい。
それから、海に行って船に乗りたい。
沢山綺麗な着物を着て、沢山綺麗なかんざしをさして・・・

「沢山沢山沢山、綺麗なものを・・・見たい。」

ぽつりぽつりと溢れる希望は言葉となり、涙が流れた。

「・・・盛親様が、何とかして下さるでしょう・・・。どうかご辛抱めされよ。それでは、これにて。御免ッ」

未だ希望を持つうちに、いっそ・・・?
いてもたってもいられず弥次兵衛は喉を振り絞ってなんとか言葉を紡ぎだし、その場を後にした。

あの痛々しい様子、どのように報告すればいいのだろう。
参道の土を乱暴に踏みしめながら、そればかりを考えていた。





こちらもご要望がありましたので再録しました。
再録以前はタイトルがなかったので、四苦八苦しつつつけてみました。(←タイトルつけるの下手)
つーか暗い話が続くな・・・