逼迫(現代信隆)



父上、お元気ですか?
−失礼。父上ならばご壮健のことと存じます。
隆元は元気にやっています。大内の穏やかな社風の中で、長曽我部先生の担当としてあちらこちらを走り回り、日々を忙しく過ごしています。
・・・やっと己の力で手に入れた居場所なのです。
ですからどうか、父上。
私の居場所を崩さないでください・・・。





珍しく定時近くに退社できた隆元は、ゆったりと夕飯を済ませて、読書をしようとソファに腰掛けた。
山積みにされている本等の背表紙の内容は、緻密に作られた物語、生々しい戦争ルポルタージュ、学術書から雑学書、何千ページものハードカバーから可愛らしい絵本など多種多様。
いつも本屋に行くと気になった物を衝動買いした結果である。結局それらはなかなか読めずに、床に直置きにされて山のようになっていた。
隆元はそんな本の山を見て、新しい本棚を買わなくてはと苦笑いを浮かべた。

早速一冊目を手に取った時、丁度よく携帯が鳴った。
ディスプレイには゛実家゛の文字。
実家からの電話は半年に一度あるかないかの程度だったし、かけてくるとしたら大概元春からで、内容も家の近況等だったので、隆元は末の弟の進路のことかと思って通話のボタンを押した。

「もしもし?元春か?」
「・・・。」
「?、もしもし?」

電話口からは何も聞こえてこない。
電波が悪いのだろうか、こちらから掛け直したほうがいいかと考え出した時、やっと相手の声が返ってきた。

「我だ。」

隆元は目を見開いた。
無機質で冷たいのにどこか若々しい声色は、忘れたくても忘れられない。
ちちうえ、と、小さく呟いた声は面白いくらいにうわずっていて、隆元はそれでもなんとかちゃんと話そうと、詰まりそうな喉を無理矢理開くように深く息を吸い、それを吐き出すと疲れたように口を開いた。

「会社の新年会以来ですか?」
「・・・フン。」
「父上も、お元気そうで何よりです。」

よかった、ちゃんと話せている。隆元は内心ホッと胸を撫で降ろし、話を続ける。

「ところで。何かありましたか?父上からの電話、正直驚きました。」

父からの電話は初めてに等しい。
何時、何が起きても無関係でいたここ数年である。ずっとそんな関係が続いて、自分のことなど忘れて欲しかったのに、どうやらあちらはそれを良しとしないらしい。
小さな皮肉を言ってやってもよかったが、父と張り合うことができるようになる程まだ心は強くなってはいない。隆元は、できるだけ穏便に済ませるよう、本心を包み隠さず飾り立てることもせずに話した。

また、電話の向こうが静かになった。
手に取ったままで終わっている本の表紙をじっと見つめながら、無意識にこくりと唾を飲み込む。
やがて、感情のない口調が心に刺さった。

「貴様、何時まで大内にいるつもりだ。」
「・・・。」
「隆元、貴様は毛利の嫡男ぞ。まだ己の成すべきことが分からぬとは、呆けたか。」
「・・・。」
「大内は道を見失うておる。貴様は沈む船と共に果て、毛利に泥を塗るつもりか。」
「・・・〜〜っ、父上に何が分かりますか・・・。毛利だって大内の恩恵を受けているではありませんか!大内には、陶さんを始め優秀な人材が揃っていることを、父上だってお分かりでしょう!私は大内で仕事ができることを誇りに思っています、ですから、毛利に帰る気はありません!」
「貴様の誇りとやらが砂上の城にあること、まだ分からぬか。現実を見よ。」
「話はそれだけですか!?ならば隆元は話すことはございません、失礼しますっ!」

強引に通話を切ると、隆元は怒りに任せて携帯を床に叩きつけようと大きく被りを振った。
・・・しかし、何時までたってもその手が降りることはなかった。

本当は隆元だって分かっている。
所属している課の社員は、自分を除く皆が毎日定時で退社しては方々で宴会をしている。受け付けの女の子二人は社長の愛人。秘書課の社員全員と営業の一部の社員は社長のコネで入社していて、簡単な文書も作れないしミスも多い。

社長だって・・・あんな・・・何をしているのか、わからないし・・・。

隆元は暫く床を睨みながら唇を噛み締めていたが、やがて、ゆっくりと腕を降ろして、ソファに倒れるように座り込んだ。

(わかっている・・・。でも・・・やっと私を私と認めてくれた場所なんだ!)

それにしても、あの父相手にあんな言葉を吐くなど・・・。
隆元は疲れたように首をうなだれ、両手で顔を覆った。







次の日、心が重苦しいまま信親の元へ原稿を取りに行った。

「おはようございます・・・。」
「ハロ〜ウ。」
「・・・。」

いつもより重く感じた玄関ドアを開けると、不審人物がいた。
可哀想なまでに似合っていない小豆色のアロハシャツ、クリーム色の七分丈カーゴパンツ、頭には何故か麦わら帽子がのっていて、七曲警察署の軍団長もビックリなサングラスをかけている。・・・どうしてこう、テキ屋とかダフ屋みたいになりたがるんだこの人は!
と、隆元は顔色一つ変えずに目の前に現れた人物をぼんやり眺めていた。

「・・・何してんですか。」
「旅行に行きたいです!」
「ハワイですか?インドネシアですか?タヒチですか?」
「北海道!」
「服装と行き先が噛み合ってません。」

いや、本当に。
何してるんだこの人は。
ニコニコと機嫌よさそうにこっちを向いている先生をさりげなくのけながら仕事場へ入ると、作業机の上に原稿が上がっていたから、内心ほっとした。
また何か、あらぬほうに頭が持って行かれて原稿が出来上がっていないかと思った。
だがそれはいらぬ心配だったようだ。原稿をパラパラめくってみれば、普通に最後まで書かれていて(当たり前のことである)、持ってきた封筒に入れて鞄に収めた。
それにしても、先生自ら旅行に行きたいとは珍しい。
天地が逆転しても、あの出不精の出不精に限ってそんなことはないと思っていたのに。
見てくれから既に旅行に行きたそうだし、どこか頭が飛んでいる。

「先生、旅行に行きたいとは珍しいですね?」
「う〜ん、イメージできないんだよ。」
「?と、いいますと?」
「今書いてる話にね、アイヌの祭りの描写を入れたいんだけど、服の質感とか、アイヌ語言葉のイントネーションとか。色々わからなくて。」
「・・・。」 「あ、もちろん隆元も一緒に。どう?」
「・・・。」

どうして私も!と唇の裏まで出かかった言葉を飲み込み、隆元ははたと考えた。
と、いうことは。
ふと鞄から手帳を取り出してスケジュールの確認をする。
それから分厚いファイルを取り出して、予算の確認をして。
真剣な顔で信親を見上げた。

「先生、行きましょう。」
「?どこに?」
「北海道です!」
「え、いいの?」
「ええ、これは立派な取材旅行になります。」
「なんか隆元、刑事みたい。“これは立派な殺人になります”みたいな。」
「それにその今執筆中の話というのは、再来月に発売予定の文庫の話ですよね?」
「うん。」
「ならば!すぐにでも手配しなければ!」
「え、え?」
「先生は旅の支度をしていてください!私は会社に戻って手続きをしてきます!」

というと、隆元は今までに見たどれよりも素早く身支度をすませ、信親が声を掛ける隙も与えずマンションを出ていった。



それから翌日の朝、二人で早速空を飛んで海を越えた。

「よし、ではまずレンタカーを借りましょう。」
「うん!」
「できるだけ一番遠い所から廻ったほうが・・・よろしいですか?」
「うん!」
「ちなみに先生はここに来たことは?」
「一度もないッス。」
「・・・。しかしここまで来たからにはどっさりと資料を持って帰っていただきますよ。」
「ジンギスカン食べたいッス。」
「それは先生の調査が全て終わったらにしましょうね。ああ、なんで私がこんな台詞をいわねばならないんだ・・・。」

そんなわけで、着いて早々レンタカーを借り、アイヌの祭りを再現しているという民俗資料館、道具類を展示している博物館や地方公民館などを次々とハシゴした。行き先の全ては信親のリクエストで、その都度隆元はカーナビと旅行ガイドブックと自身の勘を頼りに、広大な北の大地をアクセル全開で運転しまくる。
ちなみに事前のリサーチは、北海道の全体地図を前日に眺めた程度。殆どしなかったといってもいい。
それでもなんとか目当ての場所にたどり着けているのだから、なかなか勘とやらも侮れない。隆元は心の中で少しだけ微笑んだ。

現在二人がいるのは、北海道のとある図書館。
信親はカウンターに30冊はあるであろう本をどっさりと置いて、一冊一冊じっくりと目を通しながらコピーを取っている。

「先生、手伝いましょうか?」
「・・・う〜ん、いや、いい。」
「わかりました。それからこのコピーですが、よろしければ今日中に家のほうに宅急便で送りますか?」
「あ、いいね。荷物になるし。」
「では手配しておきますね。」
「うん、ありがとー。」

(14時半・・・。先生のこのペースなら、16時のチェックインは間に合わないな。)
(そうだ、このあとにもう一つ行くところがあった。)
(旅館の宅急便サービスは何時までだろうか・・・確認してみたほうがいいな。チェックイン時間のこともあるし。)

隆元は携帯を取ろうとポケットに手を入れたが、空を切った指先につい苦笑いをした。

携帯と手帳を忘れてしまったのだ。
いつも常に肌身離さず持っているのに、慌ただしい荷物準備の時に鞄から出したまま家に置いてきてしまったらしい。デジカメや携帯の充電器はあるというのに。

「先生、」
「・・・うう〜ん?」
「先生、すみません。携帯を貸してください。旅館に電話を入れます。」
「・・・うん。」

隆元は今頃自分の携帯の着信が如何ほどかを想像しながら、差し出された信親の携帯を手にした。





それから慌ただしく図書館を後にして、最後に旅館近くの本屋に寄ってそこでも本を買い、段ボール箱にどっさりとコピーを入れて旅館にチェックインしたのは18時半。
信親は部屋に着いてすぐに買った本を読み始め、そっとしておこうと隆元は一人、移動疲れを癒すために温泉へと足を運んだ。

昨日慌てて宿泊予約をした旅館は温泉街にあって、小さいけれどとても雰囲気ある所だった。
が、温泉の従業員の数人が信親のファンだったらしく、旅館内は一時パニックになった。仲居の一人がサイン色紙を持ってやってきたり女将に写真をせがまれた時も、珍しく信親は空気を読んで快くそれに応じていた。
誰もいない浴場は世辞でも大きいとはいえないが、最近改装されたらしく、真新しい檜湯船の色と薫りが目と鼻を楽しませる。
体を洗って乳白色の湯に浸かる。少し熱い湯は運転に手配にと、疲れた体にじんわりと染み渡って、隆元はつい溜息を洩らした。

湯船に背をもたれ、知らない天井を仰ぎ見た。
湯気が薫り煙る高い天井。
オレンジの白熱灯に小さな蛾が集まっている。
いつもは疎んじてしまうであろうそれすらも許してしまえるほどに心地良い。
隆元はもう一度ため息を洩らした。

急遽決まった2泊3日の北海道の取材旅行も半分以上が過ぎた。
あとは明日、帰るだけである。
どうして自分はここにいるんだろう・・・。
思えば自分の即決力と行動力に拍手したいものだが、それもこれも社内の協力がなければ成せなかったことだ。
すぐに会社に帰って、書類を作って社内を走り回って判子を貰って。
つい一昨日の話なのに、もう既に1ヶ月も前のことのようだ。
そして本当に急だったというのに、専務の陶からは“久しぶりの出張なのだから、色々見て聞いてこい”という言葉まで貰えた。帰ったらできるだけ詳しく報告書を書こう、お土産も買わなくては。そういえば、結局観光らしいこともしてないな。明日は時間があるだろうから、先生所望のジンギスカンを食べに行ってみようか。
また、この旅行で訪れた先の人たちも皆素晴らしくいい人達ばかりで、昨日足を運んだ資料館などほぼアポなしで行ったにも関わらず、普段は見せない資料を見せてくれたり、沢山の書物を目にすることもできた。
信親も終始機嫌よく、手帳にメモを取るという普段見せない姿まで拝めて、つい目を丸くしたものだ。

(最初は悪い役回りが回ってきたと思ったものだが・・・)

隆元は顔を上げてそっと目を閉じた。

「悪くないものだな。」
「何が?」

・・・。

突然の返事にぱちりと目を開けると。
視界いっぱいに長曾我部信親大先生の屈託ない顔があった。

「わあああああ!」
「隣、失礼しまーす。」
「せ、先生!?本のほうは?」
「飽きた。から、風呂に来た。」

隣に座って、大きく息を吐く先生の気配。
なんとなく、顔が見れなかった。
そして、お湯が乳白色でよかった。・・・なんとなく。

「あ、え〜と、その・・・」
「お風呂あがったら夕飯が用意してあるらしいよー。」
「あ、はい。」
「・・・。」
「・・・。」

サラサラと水の流れる音がやけに大きく聞こえる。
しばらくお互い無言だった。
いや、もしかしたら、互いに無言だと思っているのは自分だけなのかもしれない。

「そういえばさ、」

話を切りだしたのは、信親のほう。

「さっき、違う仲居さんが部屋に来てね、地方新聞を持ってきた。」
「へえ。」
「その新聞に俺の連載が載ってて、ここにサインくれって。それで、さっきの色紙もここに来る途中の壁に早速貼ってあった。・・・俺、有名人なの?」
「・・・少なくとも、私の知りうる人物のなかではトップクラスの有名人です。」
「そっかあ・・・。」
「あの、先生。」
「うん?」
「・・・最初、先生の担当になると上から言い渡されたとき、会社を辞めようかと思っていました。」
「へえ、そうなんだ?」
「ご自身が、業界でどのように言われているか、ご存知ですか?」
「・・・。」
「私は周りの言葉だけで先入観を持って、先生に会う前から勝手に嫌だと思っていたのです。」
「・・・。」

隆元は話の成り行きに沿ってなんとなく語っただけだった。
今の自分の現状を、密かに喜びを感じていることを、伝えたかっただけ。
別に聞きたくなければこの乳白色の湯とともに流してしまってくれて構わなかった。信親の性格ならそうするだろうと、無意識に思い込んでいたところもある。
そして何より、こんなに自分の心内を露わにしてもいい相手がいることが、とても嬉しかったのだ。
だから、隆元は信親の異変に気づかなかった。

「冷めた。」

途端、信親がザバリと湯船から上がった。
その声色といったら、無機質で・・・今まで聞いたことのない声色で、隆元はぎょっとして立ち去る背中を追う。

「ど、どうかなさいましたか?」
「別に。」
「私、あの、何か気に障ることでも?」
「・・・。」
「おっしゃっていただかなくては、わかりません。」

信親は隆元に背を向けたまま、脱衣所に上がり足を止めた。

「俺は別にそんな世界なんて怖くない。数字にも興味ないし、そんなもの雑念だ。周りの目がどうあったって干されたって、好きなものを書いて読んでくれる人がいる、それだけで構わない。」

ピシャリとドアを閉めた音が妙に辺りに響き渡った。





それからずっと、互いに黙ったままだった。
結局次の日もジンギスカンを食べに行くことなく、適当に土産屋で時間を弄び、時々隆元が事務的な連絡をするけれど信親は一向に黙ったままで、そのまま飛行機に乗って帰ってきてしまった。

駅からタクシーで帰る信親の姿を見送ってから、隆元は自分の足もとを見た。

「そんな・・・そんなことを思って言ったのではないのにな・・・。」

気遣いができないくらい、気が緩んでいたのか。
ぽつりと呟いた言葉をどうして先生に言えないのか、自分への自己嫌悪でぎゅっと拳を握りしめる。
そういえば、旅行に行くのにスケッチブックも忘れてしまっていた。
折角行ったのだから、何でもいいから何かを描き止めておけばよかった。
心の中にできた小さな結び目を綻ばせるには、絵を描くのが一番なのに。
今更しょうがないけれど。
ああ、でも絵が描きたい。
先に会社に廻りたいが、直帰してもいいだろうか。
今は何時だろう、多分会社の終業時間になる頃だけれど。
携帯も時計もない。
泣きたくなってきた。
隆元はとぼとぼと家までの道のりを歩き出した。



泣きたい気分でやっと家に着いた頃には、既に辺りは宵に染まっていた。
旅行前の荷物整理で散らかったリビングに埋もれたテーブルの上、携帯と手帳とスケッチブックがちゃんと揃っていたのが切ない。
ジャケットを脱いでネクタイをくつろげながら、携帯を手にし、すぐに隆元は目を見開いた。
着信件数が異常だったのだ。
履歴が流れてしまうほどの着信の間隔はほぼ全て5分、10分間隔だ。
着信は全て会社と同僚たちからだった。
これは何かがあった。
慌てて会社に電話してみるが、誰も出ない。
会社はもう終わっているだろうが、何かが起こっているならば誰かはいるはずだ。
何度も何度も電話をかけるが、やはり誰も出ない。
心臓が早鐘のように胸を打ち付ける。嫌な汗が出る。
会社を諦めて同僚や先輩・後輩の数人に電話をし始め、30分後にようやく先輩一人と連絡がついた。

「すみません、毛利です。連絡をくださいましたか?」
“毛利っ・・・!何やってたんだよお前!”
「す、すみません!!」
“・・・落ち着いて聞けよ?・・・社長が逮捕された。”
「…え?」
“内部告発だ。色んな不正がばれた。多分これからも逮捕者が出る。お前は大丈夫だろうが、俺はダメかもしれない。”
「で、では今会社のほうは!?」
“警察が入っていて会社に関わる奴は誰も入れない。・・・このまま倒産ということもあり得る。”
「そんな・・・。」

隆元にはもう、相手の言葉は聞こえなかった。
真っ白な頭の片隅で、つい数日前の父の言葉がやけに響いていた。






大人なのに子供のような。