遠き日の貞女(杉の方+松寿丸)




杉の方は、これで自由になったと思ったが、自由になってしまったとも思って、ため息をついた。
毛利の側室となったのは、実家のためでもあるが、まず自分をより高みに進めるためだ。この世に生まれた者ならば上を目指すことは当然、それが女性の身であれば、夫や家とともに…。杉の方はそう考えていた。そして、数ある武家の中でも毛利の家は何か、不思議な力を持っていると思った。根拠はなく、唯、女の勘がそう言っていただけであったが、嫁ぐならば毛利がいいと思っていた。そこに毛利の御正室が病で亡くなり、側室を迎えるのに己に白羽の矢が立ったと聞いたときは、両親と共に喜んだものだ。夫を支えて毛利を盛り上げ、いつかは夫と一緒に大内の殿について、京の絢爛豪華たる諸々に飛び込んでいきたい・・・。
しかし、毛利は杉の方の思惑とは別な方向に進んでゆく。
夫が死んだ。
夫との子はない。
跡を継いだのは正妻と夫との間にできた嫡男の興元。
その興元は自分をよくしてくれているが、大内の殿について京へ行ったきり。
残ったのは、育ち盛りで腕白な興元の弟・松寿丸という餓鬼ただ1人と松寿丸の住まう猿掛城。しかし、松寿丸は興元がいないこの時に家臣の井上に城を追い出され、杉の方も居場所がなくなり、杉の方の別邸にと与えられた土居に二人で転がり込んだのだ。
夢に見た絢爛豪華な京は、夢のまた夢になろうとしていた。
ついつい項垂れ、畳の縫い目に目線を落としてしまうというものだ。
庭で遊んでいた松寿丸が、館にあがってきた。

「松寿丸様?何です?」
「杉殿。」
「何。」
「これを。」
「キャアアアアアッ!」

松寿丸が懐に隠していた腕に、蛇を巻きつけてこちらによこしたものだから、杉の方は金切り声をあげて、慌てて近くの柱の影に身を隠した。
松寿丸は、してやったりと面白そうに笑っている。

「何ですかその気持ち悪い蛇は!す、捨ててらっしゃい!」
「蛇だって食べられるかもしれぬ。」
「食べません!いいから!ここから遠いところに早く捨ててきて!」

松寿丸がしぶしぶとどこかに行った。腰が抜けそうな体で這い蹲るようにして縁側までやってきて首をのばすと、坂を下りて田のあぜ道を進んでいく松寿丸の後ろ姿が見えて、心の底から安堵しぺたりと座った。

(蛇は食べないけれど・・・)

今日明日食べるものすら松寿丸の外戚である福原に頼りっきりである。衣服もない。この土居だって、後家の自分にあてがわれた館といっても古ぼけたあばら家に近く、本当に自分は一城の主の妻だったのだろうかと、未来はおろか過去すら夢のように思えてきて、杉の方は大きい瞳を潤ませた。

(わたくしは、どうなってしまうのかしら。)
(ついつい松寿丸様と、こんな所に来てしまった。)

つい、柱にもたれてハアとため息をついてしまうが、柱がぎしりと不吉な音を立てたものだから慌てて背をただした。そして、もう一度ため息。
数日前、実家から便りが来た。自分の身を案じての、戻って来いとの頼りだ。先がないほど老いてもいない身、次の殿のところへ嫁いでまた京へ行く夢を追うほうが、よほどいいのではないか。子どもでも1人いればそうしていたかもしれない。杉の方は自分でも考えた。
でも。
蛇を逃した松寿丸が戻ってきた。今度はどこからか長い木の枝を拾ってきて、杉の方のいる縁側で垣根に向って剣術の稽古をしはじめている。細く白い腕が頼りないが、それでも今この毛利の地を守るべきなのは、井上ではなくこの若い殿だということは杉の方でもわかった。

(わたくしには実家があるけれど、松寿丸様には父上も母上もおらず、兄上は京へ行ったきり・・・。)
(やんちゃだけど、頭の悪い方ではないし・・・)

そして、松寿丸は懐かないが杉の方から離れなかった。この土居にやってくる途中でも、隣に来ずとも、やや一定の距離を置いて後ろからついてくる松寿丸は可愛らしく、この地へ辿りついてからも、松寿丸はよほどのことがない限り、杉の方の姿が見えるところにいた。
最早そういう運命に生まれたのだと納得するしかなかった。一度受け入れれば、あとはどうとでもなるし気持ちも楽になる。弘元が死んだ直後に比べれば、幾分か気持ちも落ち着いている。杉の方は大きい瞳で落ちようとしている陽をきつく睨んだ。
ふと、松寿丸がこちらを見ているのに気付いた。杉の方はいたずらっぽく笑いながら、素足で縁側を歩いて松寿丸へ近づく。

「松寿丸様。」
「何だ。」
「この状況をどう思います?」
「解せぬ。杉殿と一緒というのがまず気に喰わぬ。井上はそのうち殺してくれる。」
「おお怖い。・・・解せぬのはわたくしもです。でもわたくしは子どもでもなければ女です。松寿丸様とは違って自由です。わたくしは実家へ戻ることも、他の殿方のところへ行くこともできます。松寿丸様はお兄様にこの吉田を守るよう、仰せつかってらっしゃるわね。でも、実際守っているのは貴方ではなく井上・・・。その井上を、今松寿丸様はどうにもできない。松寿丸様は、お1人で何がお出来になって?」

松寿丸は閉口して視線を泳がせ、とうとううつむいてしまった。少しいじめすぎたかと杉の方は思ったが、松寿丸が聡明なことを彼女は知っていた。
杉の方は、身をかがめて、松寿丸の肩にそっと掌を置いた。

「杉が、ここにいます。」

松寿丸が顔をあげた。どこにでもいる少年の顔をして驚いている。可愛らしいところもあるものだ。

「わたくしはどこにも参りません。杉が、今日から松寿丸様の母上です。」

そうしてにっこりと笑いかけると、松寿丸は縋るような小さな瞳から、次から次へと大きな涙の粒を零しはじめたものだから、あらあら、と杉は少し驚いて自分の口に手をあててしまった。

「今日から・・・とは・・・今までは母上ではなかったのか・・・?」

流石にその言葉には杉の方は胸を痛めて、いよいよこの小さな城主の母になろうとそっと、その小さな背を自分へと引き寄せ、頬を寄せた。

「あらあら・・・それは杉が悪かったですわね、ずっと杉は松寿丸様の母上ですよ。これから、松寿丸様が嫌だと申しても杉はずっとおりますよ?ですからほら、もう泣き止んでくださいな?明日からは大忙しですわよ、この館のお掃除をして、畑も耕しましょう。そのために、まずは夕餉を食べて、今日はもう休みましょうね。」

この年でこんなに大きな息子が出来てしまった。
泣き止むどころかわんわんと泣いてしまった松寿丸の頬を袖で拭ってやりながら、杉の方は夕餉はとびきり美味しいものを作ってやろうと心に誓ったのだった。






「・・・ということもありましたのに、元就様はいつからああなってしまったのか。わたくしの育て方が悪かったのかしら。」

と、杉の方はゆうるりと己を扇子で扇ぎながら、さほど嘆いてもいないように言った。

しかし、突然北の第からやってきた祖母の相手役をしていた毛利三兄弟はたまったものではない。この忙しい時に突然やってきた、杉の方の昔話を聞かされるはめになり、元春は明後日の方角を見、隆景は顔を引き攣らせている。

(それは我らが一番聞きたい!)
(全く!大方様は一体何がしたいのだ!)

そのなかで隆元だけは、最近兄弟が集まる機会も少なくなったから祖母は気を利かせてくれたのだろうと思って、苦笑いを浮かべて弟たちに最近の出来事などを話かけている。
杉の方はそんな3人を見て、扇で口元を隠してふふふと嬉しそうに笑った。

(現在の毛利に生きるみぃんな、わたくしの誇りですわよ。)







毛利のグランマ。
元就にとっては義理のお母さんだけど、3兄弟にとっては本当のお婆さん。お婆さんと言うと怒るから言わない。
息子も孫たちも、グランマのおかげで今日も生きています。
(元春と隆景が心の狭い子になってしまった…)