遺言(隆景・広家)











吹き抜けてきた潮風に前髪が揺れた。
隆景は目を細め、つい腰を上げた。


隆景は、自らの床の周りに沢山の書を山積みにし、読み耽る毎日を送っている。
起床し、日輪を拝んでのちすぐに朝餉を食してすぐに書を開く。時には箸片手に紙をめくったりもして、夜は限界まで目を通した。
時には身を案じる家臣に止められたりもしたけれど、昔より起きていられなくなった。
風邪を引く頻度も高くなり、そして治りづらくなっている。
確実に弱っている身体・・・。

それでも、この浮城と謳われる三原を取り巻く潮風はいつだって心地よく、隆景を包み込んでくれる。
つい、隆景は目を閉じて大きく息を吸った。

「叔父上様。」

横から声がして、ゆっくりと瞼を開けた。
己がひとときを邪魔されたと、隆景は少し不愉快な顔をして、再び書の山に囲まれた床に戻った。

「来たか。」

遣って来たのは、兄・元春の息子である吉川広家であった。
こちらもまた、どこか不機嫌そうに眉間に皺を寄せていて、床の間に入るなり、山と積み重なっている書の山を見て肩を竦める。
隆景は床の上に胡坐をかきながら、甥を招き入れた。

「先ほど、大手で輝元様に合いましたけど。」
「ああ。上様は呼んでないのに来た。何を言うかと思えば、“気を確かに持ってくだされ”だと・・・。そっくりそのまま上様に言ってやったが。」
「・・・流石叔父上様だ。」
「私がすぐにぽっくり逝くと思っている。もういい年だというのに・・・。」

広家の唇が僅かに震えたのを隆景は目の端で見た。
彼奴も、自分がすぐに死ぬと思っているようだ。

「叔父上様、ならば書を読み耽るより、広島に登城して「それはできぬ。」
「どうしてですか。」
「私は時期に死ぬからだ。」

広家が息を飲んだ。
隆景は、じろりと睨んで嗤う。

「残り少ない時間、意味のない書を読んで過ごしているだけではない。」

といって、隆景は今朝より読みはじめた書を手にとって、広家のほうに見せた。
その字は、忘れたくても忘れることのできない父の筆跡に相違なく、目を見張った。

「・・・これは・・・父上の?」
「そうだ。貴様の父・元春の書だけではない。元就様の書状、我が長兄隆元の書状を掻き集めて、言い残したことはないか考えあぐねている所だ。」

遺言のため、か。
広家は、正座した膝の上に乗せた拳に力を込めた。
この叔父・小早川隆景は、父の吉川元春と並び、毛利両川として、毛利の2つの大きな柱のうちの一つを担っている。
初めて見た時は、ふんわりと笑って座っていたから、物腰の柔らかそうな叔父上だと思ったものだ。

しかし、すぐにそんな考えを撤回した。
父・元春が軍事を司るならば、叔父・隆景は外交を司っていた。
父が死ぬと、隆景は毛利の実質上の最高司令官として皆を束ねてきている。百戦練磨、鍛え上げられた才知による采配は小気味よく事情を見通し、そして毛利への畏敬の念は誰より高く、だからこそ周りにはとても厳しかった。
特に広家の従兄であり、毛利を束ねる主柱である輝元へは、家臣の居ないところでは手を上げて折檻しているくらいだ。
広家もその現場に出くわした事があるが、輝元も輝元で、己の立場を弁えていない言動をしているから、あえて止めには入ることはしていない。
けれど、その場面を見ただけでも震えあがる思いがした。
そんな叔父の体は今、朽ち果てようとしている。
きっと叔父は、自分にそんな遺言を託すために呼んだのだ。
どうしよう、叔父に出来なかった事を頼まれるのは・・・。
役不足ではあるまいか。

「・・・そして、広家。お前に言う事があって、呼んだのだ。」

来た。
広家は固唾を飲んだ。
そっと隆景が詰め寄り、耳打ちをする。

「時期にこの世は再び乱れる。」
「・・・。」
「貴様も感づいてはいよう。秀吉が死ぬのもまた、時間の問題だ。加賀殿も健在とはいえ、老齢・・・。そうなれば内府殿が出てくる。いいか。毛利はいかなる時も何にも付かぬと心得よ。」
「それは、「貴様は元春兄の息子だ。」
「・・・。」
「貴様は、元春兄によく似ているが・・・元春兄には無いものも持っている。それでもって、毛利を導け。」
「俺でなくても・・・」
「貴様がやるのだ。それから、これだけはしっかと聞き入れろ。安国寺恵慧には気をつけろ。奴の言葉は常に冗長だ。己の野心と知恵を毛利への忠誠に隠している。」

広家は顎を引いた。
そんなことを言われても。
鬼吉川の息子になりたくてなったわけではないのに。叔父より受け継ごうとしているそれは、毛利百二十万石全ての民草、そして領地を一手に引き受けるといっても過言ではない。
途方もない仕事に、広家は冷や汗が流れた。
そこで、隆景は腰を引いて再び布団の上に座り込んだ。

「・・・やれやれ。これで少し、気が楽になった。」
「俺は今凄く荷が重いです。」
「だろうな。」

隆景は少し笑った。

「元春兄が死んでから、私はひとりぼっちになったと思ったよ。一家臣が、巨大となった家を一人で支えねばならなくなったのだからな。出奔も少しばかり考えた。」
「叔父上が!?」
「そうだ。・・・だが、ふと・・・長兄の事を思い出した。」

己の立場が重荷となった瞬間、長兄が生まれ持った悩みを思い知った。
それでも隆元兄は、己が立場を踏まえて言動を慎み、結果商人や民草の信頼を毛利に引きよせ、毛利の財力を高めるのに尽力している。
以降、隆景は内政を考える際には、隆元兄ならどうするかと考えるようになった。

「それだけではないぞ。」

戦になれば、指揮を執る場面では祖父ならどうするか、前線に出る場合は元春兄ならばどうするか、考えるようになった。
考える時は独りだけれど、出来の悪い甥の向こうにある毛利のためなればこそ。

「私には子がいない。だから・・・上様を叱りつける時は、つい我が子のようにしてしまったが・・・。上様に我が毛利への思い、届いたかどうか・・・。」

広家は何度か瞬きをした。
叔父の弱々しい声を初めて聞いたのだ。

「叔父上が輝元様を叱りつけている様は、親子のようでしたよ。俺はいっつも怖い叔父上だと思って、とばっちりを受けないようにそっと退出したりしてましたがね。」
「貴様。」

隆景は拳を作った腕をゆっくりと振り上げた。
その腕は枯れ木のように細い物だったが、それだけでも十分恐怖に値したものだから、広家は思わず正座を崩して両手を前に出し叔父を止めようとする。

「待って!待ってくださいって!でも、俺はいつも、厳しくて何でもできる叔父上としか思ってませんってば!だから俺は、叔父上みたいになればいいんでしょ!?」
「分かればよろしい。」
「・・・あっぶねー。」
「貴様は年を重ねる毎に、父に似てくるな。」
「父上・・・元春に?」
「ああ。」

楽しくて叶わぬ、と、隆景は思ったが、言葉にはしない。
その代わり、悪態をつらつらと話始めた。

「書を集めるにあたって、元春兄の部屋に入ったはいいが、生前兄上は一体何をしていたのだ。太平記の写しだけで行李(こうり)が20箱だと?聞いて呆れる。それだけではない、源氏物語も、枕草紙も。写本だけで屋敷ができそうだ。兄上が一体何を考えていたのか、さっぱりわからん。」
「俺もわかんないです。」
「父上は父上で、同じ事を書いた書状が100も出てくるわ、一束が一反の長さもあるわ。隆元兄は呪いの書かと思えば、自分を卑下してらっしゃる書状だわ・・・。遺言どころではないわ。」
「あはは。面白い家っすねー。」
「・・・ああ、面白い家だ。」

あの世に行ったら、父や兄達は待っていてくれるだろうか。
元春兄がいたら、雪合戦の決着をつけねばなるまい。
隆元兄には、輝元への愚痴をたんまり聞いてもらおう。
父上には・・・何と申そうか。昔のように、酒宴を開いて、皆で飯を食べ、歌を詠んで笑おう。
そして、父上が思いついた言葉を、隆景はそのまま丁第致すことにしましょう。


隆景は、再び書を開いて小さく笑った。









父の日と思って書いたらなんか違う。